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2012年5月7日月曜日

敗戦から学ぶ

ダイヤモンドオンライの記事より。
日本軍の失敗から何を学ぶのか? 今後の日本を勝利に導く「3つの戦略」
 
 
日本軍の失敗から学ぶということ。
本当にやってきただろうか。
日本人が避けてきたことなのではないだろうか。


失敗の原因から目を背けて生きていく、それほど楽なことはない。
過去を美化して、思い出だけに生きることは簡単だ。
ある程度時間が経ったら、しっかりと振り返ってみることが必要だ。
 
 
「失敗の本質」という本の紹介。
内容がどんなものなのかはわからないが、3つの戦略が紹介されています。
 

【戦略を巡る3つのサイクル
(1)「追いかける指標」として、有効な戦略を「発見する能力」
(2)市場の支配的な戦略を見抜き、無効化する「イノベーション」
(3)自らの指標の有効性を、敵から守るための「イノベーション阻害戦略」
 

「謙虚さ」とは自信を失うこととは違い、素直に現実を見つめてこの世界から懸命に学ぶことです。それができた時、日本と日本人は常に困難を跳ね除け、勝利を収めてきました(傲慢さはその対極の結果をもたらした)。
今こそ本質を学び、正しく変化するべき時なのです。
日本人は目標が定まれば、ルールに徹底的に習熟することで、怒涛の戦果・成果を挙げることが得意な、極めてユニークな国民性を持ちます。
 
現代は社会の中において、全くもって目標というものがなくなってしまったのかもしれない。
だからこそ、人々がとまどっているのかもしれない。
目標をしっかりと定めてくれるような存在がいない。


日本は敗戦からあっという間に立ち直ってしまったので、振り返る時間もなかったのかもしれません。
今この時代に、全てひっくるめて日本の失敗に対する対処の仕方の特質を考え直してみるのもいいのかもしれません。

2011年8月8日月曜日

戦争と平和

池田信夫blog part2の記事より。
終わりなき戦い


池田信夫氏による、本の紹介の記事。
「Constant Battles」という本。
なぜ我々は戦うのかについて書かれた本だと思う。


記事には驚くべき事実が書かれている。
20世紀のなかばまで、成人男性の25%が意図的に殺されていたという事実。
人口が増えて食料が希少になる時、戦争によって合理的に人口を調整していたということ。
恐ろしいというか、仕方ないというか。


自然な状態の人類は平和で友好的だったのではなく、凶暴で攻撃的だった。それが緩和されたのは、農耕によって食糧が自給できるようになってからだが、それでもより多くの食糧を求めて戦争が繰り返された。成人男子の25%が殺されるという比率は、20世紀なかばまで変わっていない。ファーガソンなど多くの歴史家も指摘するように、西洋文明が栄えた最大の原因は、主権国家が戦争機械としてもっとも性能がよかったからである。


僕自身、国家も法律もない、自然な状態の人間はお互いに平和に暮らせるものと思っていた。
国家があるから、戦争が起こるのだと思っていた。
しかし最近は、どうやら違うのではないかと考えるようになった。


自然状態は電車の中。
国家は会社の中と考えたらわかりやすいかもしれない。
電車の中のほうが無秩序な争いが起こる可能性が高い。
ある程度のルールがないと、人間は平和に暮らしていけない生き物なのだろう。
何だか悲しいが、それが事実なのだろう。


著者は、現代では食糧の総量としては絶対的な欠乏はなくなったので、戦争は合理的行動ではなくなったとのべているが、その分配は大きく片寄っており、民族的・宗教的な憎悪も絶えないので、戦争はなくならないだろう。「自然」のままに生活すれば平和になると信じているのは、飽食した先進国の自称エコロジストだけである。


現代では、戦争が商売のようになっている感がある。
食料の奪い合いという目的がなくなった今、戦争は無理やり引き起こされているのかもしれない。

2010年12月3日金曜日

レイテ決戦

この間、ふと戦争について考えてみようと思って、YOUTUBEの映像を見ていた。
普段は遭遇しないような、衝撃的なドキュメンタリーなので、考えたくない人はみないほうがよいです。
第二次大戦終盤のレイテ決戦。

 
果てしなき消耗戦・証言記録・レイテ決戦 1/7

 
補給もない、勝目もない中で戦いに向かっていった日本。
1万5千の兵が取り残され、脱出できたのは4千人。

 
当時戦っていた日本軍の兵隊のインタビューもあります。
現代で生きる僕らには到底想像できないような、常軌を逸した状態。
死んでいった仲間のことを、淡々と語る彼らの姿。
そして、ふと思い出したように遠くを見る彼らの眼。
何を見て、そしてどうやって生きてきたのか。



戻ってきてまだショックも収まらぬだろうに、敗戦からまた再び生きていこうとした人たちのバイタリティは、すごすぎる。


現代に生きる僕らは戦争中に比べたら、平穏で、快適な生活を送っている。
そんな生のありがたみに、気づく機会もなかなかない。


そして、一見幸せに見える僕らの生活も、何も変わらない安定を前提としている分、つまらないのかもしれない。
それはそれで考え物だ。
ちょっと不謹慎かもしれないが、安定という状態も、それはそれで刺激のないつまらないものなのかもしれないと思ってしまった。
戦後の日本人がちょっとだけうらやましくなってしまった。

2010年10月15日金曜日

愛国心

僕が小学校、中学校の頃の歴史教育。
何だか振り返ってみると、日本は戦争中悪い事をしたんだということばかり教育されてきた気がする。


そんなことばかり言われてきたら、子どもながらに、日本は悪い国なんじゃないかというイメージがついてしまう。
愛国心なんか育つわけがない。


愛国心に対しては、僕も何だか、持つこと自体が悪い事なんじゃないかと思ってきた。
たとえそれが敗戦国に対する、アメリカの教育方針に則っているとしても、ここらへんで変えていかないといけないのではないだろうか。


要は愛国心とは、プライドの問題なのではないかと思う。
自分の生まれ育った国に対して、プライドを持てるかどうか。


自分の子どもに対して、
「お前はダメだ。悪い事ばっかりして。クズだ」
と年がら年中言い続けていたら、そりゃプライドをズタズタにされた大人になる。
それは将来的な反抗になって帰ってくる。


そうではなくて、悪い事をした事実は認めさせながらも、プライドの部分はしっかりと保ってやらないとダメなのだ。
「それをやってはダメだろう。しかし、君はかけがえのない存在だ」


戦争を行ったという事実。そして、そこに向かった状況を正確に伝えていく。


そして最後に、やっぱり戦わなければならないときがあることを教えなければいけない。
理想と現実があることを教えなければいけない。
愛する人を守るために、あなただったらどうしますかということを、子どもたちに問わなければならない。


様々な局面において、ぼーっと立って見ているだけの人間を育ててはならない。


自分たちが望んでやったにしても、ここまでプライドのない人間が育ってきて、アメリカもさぞかし驚いているに違いない。

2010年9月20日月曜日

動く世界地図

世界の歴史の動きをビジュアル化したFlashがすごい

こういったツールがあったら、もっと歴史の勉強が楽しくなったかもしれません。

これから電子教科書も普及して来るだろうし、これからの子どもたちの勉強はさらに楽しくなっていくことでしょう。

もうちょっと後に生まれたかったな(笑)

2010年8月16日月曜日

8-6 広島

8月6日の広島の平和式典に、アメリカ大使が参加しました。

 

これは大きな一歩であると思います。

アメリカのパフォーマンスであったとしても、会場に足を運ばせた意味は大きい。

裏で何かしらのやり取りがあったとしても、こういうことを少しずつ積み重ねて変わっていかねばならぬのです。

いつまでも過去を引きずっていてもしょうがない。未来に向かって、何ができるのかを考えていかなければならないのだと思います。


アメリカは、嘘か本当か分からないが、核軍縮の方向に進んでいます。
おそらくコストカットの面が強いと思うけど。

 

アメリカの大衆雑誌、「LIFE」のWEBの記事でも、原爆の写真が取り上げられています。

Fallout: After a Nuclear Attack-LIFE 

 

日本は唯一の被爆国として、やはり後の世代に語り継いでいくべきものがある。
どうしてあんなにひどいことになったのか、二度と繰り返さないためにも、体験した国として、世の中に伝えていかなければならないと思います。

2010年4月29日木曜日

歴史とは何ぞや

最近、日本史の大まかな流れをまた一から勉強しなおしました。


事柄の流れはより一層分かったのだけど、求めているものと何か違う。

 


知り合いに民俗学を勉強している人がいて、たまに話をすることがあります。

彼から、歴史学と民俗学は同じようで、違うというのを聞きました。


歴史学は事柄に、民俗学は人に焦点を当てているのだと。


そして、彼は民俗学の話題の一例として、伝説上の天狗という存在が、どのように人間の間に生まれて、どのような流れで今のような鼻が長くて赤い顔になったのかという話をしてくれました。


しかし、これも求めているものとは何か違うのです。


僕が知りたいのは、歴史の中での大正デモクラシーでもなく、大正デモクラシーが人間にもたらしたものでもなく、日本が浮かれ、とまどっている時に、我関せずで飲んだくれていた長屋の半兵衛の目を通した大正デモクラシーなのです。

 

 

やはり想像して、勝手にお話を創るしかないのでしょうか。

 

 

半兵衛の話

 

「そうだね、牛肉ってのはちょっとかたいんだね。何だか俺は靴底を食ってるみてえで性には合わねえんだよな」