2010年9月17日金曜日

何気ない日常

サッカー前日本代表監督の岡田氏と、アスリートの為末大氏が会食を行ったときのやり取り。何だか素晴らしいと思いました。


なんでもない日常を、愛せるかどうかという為末氏の言葉。忘れていたものを、思い出した。


日常には感動があるもんだと、思い込まされて、感動を受けたいという気持ちばかりが先行して、毎日を愛することを忘れがちになっていました。


作られた感動でなく、何気ないものを求めたい。

そして、感動を作れる人間になりたいと、改めて思ったのでした。


アスリートから学ぶことは多い。

2010年9月3日金曜日

エリートとは何か

エリートélite)とは社会の中で優秀な能力や影響力を持つ人間や集団である。

   (WIKIPEDIAより引用)

日本はエリート教育について、狭い視点しか持っていないのではないか。

東大ー財務省ー総理大臣みたいなのしかエリートとしか思っていないように見受けられる。

僕から言わしてみれば、ものすごい勢いで皿を回す人もエリートだし、ものすごく点を取る人もエリートだ。

ようは普通の人間が到底及ばないような、限界を超えた力を持っているかどうか。他の人にまねできないような力を持っているかどうか。

日本では、そこらへんの柔軟性が薄いような気がする。その人自身の魅力や能力ではなく、権威や大きな流れに巻かれてしまいがちである。

これからは、自国のことばかりでなく、海外との競争を視野に入れた上で、幅広いエリートを育てなければならない。

「なんの役に立つの?」と思えるようなものが、新しい流れを生み出すかもしれない。他業種と、グローバルにつながって発展していくかもしれない。

現状より少し先の視点を持ちながら、真のエリートを育てていかなければならない。

ベーシックインカム

ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で支給するという構想[1][2][3][4]基礎所得保障基本所得保障とも、また国民配当[5]ともいう。すくなくとも18世紀末に社会思想家のトマス・ペインが主張していたとされ[6]1970年代ヨーロッパで議論がはじまっており、近年になってから日本でも話題に上るようになっている

   (WIKIPEDIAより引用)

とにかく貧乏人にも金持ちにも一律月額一定額を支給するという政策である。

それによって、生活保護も、社会保障費も、ベーシックインカムがあるから文句を言わないでくださいということになっていく。

このやり方によって、現代で失われている挑戦への機会が格段に増える。

失敗したとしても、最低限食っていくだけのお金はもらえるからである。

最低限もらうだけで、頑張らない人が増えるのではないか。

僕は、ベーシックインカムのデメリットの方ばかりに目が行きがちになり、最初は反対だったが、メリットのほうだけで、やってみる価値はありそうだなあと思うようになった。

現実の、生活に関わる問題だけに、そう簡単に実験してみることは難しいかもしれないが、20年以内には、ベーシックインカムは適用されていてほしい。

社会保障と、挑戦という、ふたつの問題を一挙に解決できる可能性があるからだ。

同情、哀れみ、共感

ツイッターの@sasakitoshinao さんのツイートで非常に興味深いものがあった。同情や哀れみ、そして共感という感情についてのやり取りが行われていた。

同情や哀れみは上から目線だからダメなんだと思います。障害による欠落=哀れみではなく、健常者も障害者もだれもが欠落を抱えていて、その欠落をお互いに補完しあえる関係を構築しようというのが、共感。

同情は苦しむ人を増やす、哀れみは相手を弱くする、共感は相手の感情を認めて軽くしてあげること。その違いが日本人にはなかなかピンとこない。

同情や哀れみは個人的感情、共感は社会的感情ということですかね。キリスト教社会では富める者が施しをし、公共に奉仕するというのが宗教倫理を核として共感されていると。日本でそれに対応するものはあるんでしょうか。

(8月30日の@sasakitoshinaoさんのタイムラインより引用)

現代では、共感という感情が失われつつあるような気がしてならない。

コミュニティの崩壊、人間関係の希薄化が進んでいく中で、個人的感情である哀れみや同情の感情で終わってしまっている感じがある。

共感という感情は、自分と相手を一つの存在として考える。

人々が自分の生活でいっぱいいっぱいなのは理解できるのだが、社会において、もっと共感の感情を発揮してもよいのではないかと思った。

ちょっとした心がけで、社会がうまく回りだすのだから。

学校の勉強

今振り返っていると、学校の勉強ってなんだったんだろうかと思う。

「今から、歴史の授業を始めます。それでは教科書の14ページを開いてください」

当時は当たり前のように、指示にしたがって教科書を開いていた。

しかし、肝心の、「なぜ歴史を学ばなければいけないのか」という説明もなしに始めるから、単なる単語の暗記ばかりを繰り返していたように思う。

「歴史を学ぶことによって、現在に生きる我々のヒントになるかもしれん。それでは14ページいってみよう」

みたいな説明があったら、どれだけ楽しかったことか。

「ヴィルヘルム2世が当時行ったのは~」

事柄ばかりの説明に、途中からわけが分からなくなっていった。

現在の教育に欠けているのは、まず大まかな流れを、大人が語ること。

学ぶことの意味を語ることなのではないだろうか。