2011年6月17日金曜日

私の中の曖昧な記憶

WIREDVISIONの記事より。
広告で生まれる「ニセの記憶」:研究結果 - WIRED VISION


記事では広告というものが、いかに人間の脳みそを支配してきたのかの歴史と実際の例が紹介されています。


確かにTVのCMの影響を受けて、今の時代はインターネットの情報を受けて、脳みそが書き変えられてしまう場合もあるでしょう。
物理世界と情報の世界が組み合わさって、全く新しい記憶を形成してしまう。
それは大変恐ろしいことのように感じられるけれども、新たな世界を生きる人間だけがが感じることの出来る新しい体験だと考えることもできます。


まあ現代の人間に、生活から広告を全く排除することはできないし、広告から喚起される自分の体験などもあるわけだし、一長一短です。
まず広告は嘘だと思ってみる姿勢も時には大切なのかもしれませんが、それだけではもったいないような気がします。
現代の人間に従来の広告手法が効かなくなってきたのも、面白い現象だと思います。


記事の中でも面白かったのが、下記の部分。


すなわち、記憶とは、常に変わらない情報が蓄積されているわけではなく、常に変化する「プロセス」であることが明らかになってきているのだ。いわば、思い出すたびに書き換えられるファイルのようなものだ。何かを思いだせば思い出すほど、記憶の正確さは失われて行く。
記憶の確かさと感じられるものは、あくまで、それを最後に思い出した時点での確かさでしかない。記憶の元になった刺激が存在しないため、想起される記憶は変化している。そして、「実際に記憶している内容」から、「記憶したいと思っている内容」に近くなっていく。


つまり記憶は曖昧であり、思い出すたびにその精度を欠いていくということなのでしょう。
「実際に記憶している内容」から「記憶したいと思っている内容」に近くなっていくというのは、思い当たるフシがたくさんあります。
自分の記憶を他の人に聞いてみたら、全く違う内容だったり。
自分の都合のいいように、記憶を書き変えているのでしょう。


だからこそ正確な情報を、その時々で脳ではない別の媒体に記録していくことが重要なのかもしれません。
カメラであり、メモ帳であり、ボイスレコーダーであるものが、実は携帯電話なのかもしれません。
携帯電話におまけとしてついてきた機能が、本来の通話機能を凌駕し、完全にひとつで完結するデジタルツールになるかもしれません。


そして、コンピューターの記憶と人間の記憶の間に、新たなコラボレーションが生まれてくるような時代になってくるでしょう。
人間にしかできない「考える」ことの意味がさらに問われてくる時代になってくるでしょう。
以前は恐ろしい時代だと思ったけれど、ちょっと楽しみになってきました。
人間の脳がどこまでコンピュータに勝負できるのか。どこで勝負できるのか。