2011年3月30日水曜日

あいつがやっているんだから

ライフハッカーの記事より。
悪習慣を断ち切るためにこれまでとは別の視点に立つという発想



自分のなかに染み付いている悪習慣。
なかなか変えることって難しいものです。



食べすぎたり、いらないもの買ったり。
どうでもいいことに時間使ったり。
タバコやめられなかったり。
働くの嫌だったり(笑)



そんな時に、自分の中の枠組みだけで習慣を変えようとすると、難しいのかもしれません。
「タバコを一日10本にする」
と誓っただけでは、達成するのは難しい。



この記事にかかれているように、ただ単純に、
「あいつにもできているのだから、俺もできるはずだ」
という発想は、単純で、意外と達成しやすいのかもしれません。



これはなかなか、見落としがちな視点だなあと思いました。

2011年3月28日月曜日

未来を見通した作家ー安部公房ー

僕が尊敬する作家の一人に、安部公房氏がいます。
今日は彼の魅力について紹介します。



安部 公房(あべ こうぼう、1924年大正13年)3月7日 - 1993年平成5年)1月22日)は、日本小説家劇作家演出家
東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区滝野川)生まれ(本籍地北海道旭川市)。少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。(Wikipesiaより引用)
 
 
 
有名な作品は、「砂の女」「箱男」「壁ーS・カルマ氏の犯罪」など。
SFチックな独特な空間を配置した舞台設定。
砂や壁、箱などの一見何の暗示なのか分からないモノを使いながら、読者を別世界へと誘って行きます。
 
 
 
彼の作品で印象に残っているのは、「第四間氷期」という作品。
コンピュータの予言によって管理されている人類。
環境に適応するために、人類が水中で生活している未来を描いた作品でした。
 
 
 
人類は水中で生活しているので、涙を流すことは必要ない。
感情の表現も退化していくのです。 
なのに、陸に上がって久しぶりに呼吸をした主人公の目から、涙があふれてくる。
そのシーンがとても印象的でした。
 
 
 
現在のことを扱っている作家はたくさんいます。
過去を掘り下げてモチーフにしている作家もたくさんいます。
でも、未来を見せてくれる作家はそうはいない。
人間がどのように変化していくのかを、予言しているような、先見の明を持った作家というのはそうはいません。
 
 
 
彼が箱や砂に投影したものは一体何だったのか。
何を見通して、未来に生きる人類に、何を警告していたのか。
それを感じながらもう一度読んでみたいなあと思っています。

2011年3月25日金曜日

アノミー社会

アノミー: : anomie)は、社会規範が弛緩・崩壊などすることによって、無規範状態や無規則状態を示す言葉。フランスの社会学者エミール・デュルケーム社会学的概念として最初に用いたことで知られる。(Wikipesiaより引用)



僕は社会との関連を失って、完全に一人になってしまっている状況です。
まあ一応働いてはいるが、人との関わりは希薄で、社会とつながっている感覚も薄い仕事。
自分の家族とも離れ、一人で暮らしている。
恋人もいない。
金もないから、人と会うこともなるべく避けようとしてしまう。



社会との関連を失って行くと、無樹範、無規則状態の、動物みたいになってしまいます。
誰からも、自分の行動を縛られることがなくなってしまう。
自分で勝手に決められるということが自由だと思ったらそうでもなかった。
ある程度の規範や規則がないと、人間という動物はダメになっていく。
そして、アノミー状態になって、一種の精神病のようになってしまう。



人間とは、他人との関連の中で生きがいを見つけていくという話をどこかで見ましたが、本当にその通りなのだなあと改めて感じたのです。
その意味での家族であり、恋人であり、結婚であり。
人類が長年に渡って蓄積してきた社会制度の意味が分かった気がしました。



この先、人との関連を失ったアノミー人間が社会に溢れてくるようになると思います。
これを解決するには、アノミー人間に、社会との関わりを与えることが必要です。
しかし、そう簡単にいかない問題でもあります。



日本には個人主義の土台がない。
まだまだ個人で動いている人に対しての動揺があります。
アノミー人間による犯罪や、悲劇が増えていくのかもしれませんが、日本に個人主義が根付くまでの痛みみたいなもので、仕方のないことなのかもしれません。

2011年3月23日水曜日

空飛ぶ家

GIZMODEの記事より。
リアル・カールじいさんの空飛ぶ家(ギャラリーあり)



実際に家を飛ばしてみようとする気持ち。
そして、それを番組でやるということ。
National Geographicが秋からスタートさせる新番組、「How Hard Can It Be?(どんだけ大変なんだろ?)」



でかいことしたければ、アメリカにいくしかないのかな…

2011年3月18日金曜日

カンニング事件総括

京都大入試で、ネット上に答えを書くカンニング行為が行われた。
早稲田や、同志社でも同様の事件が行われている。
事件を起こした青年は、威力業務妨害で逮捕された。



この事件で思うこと。
まず、ネット社会になって、携帯電話やネット携帯端末を持ち込める可能性が広がった現代において、対策をしていない大学が時代遅れであること。



そして、ここまでして大学に受かろうとした青年を形作った教育が悪かったということ。
親が悪い。
実力で乳歯に通らなければ意味がない。
そして、大学に受かることが必ずしも安泰な人生ではなくなったということを、親が知るべきである。



社会に入れば、大卒も、高卒も大して変わりはない。
要するに、ある集団のなかにおいて、実力が発揮できるかは大学卒業とは全く関係が無い。



前代未聞の恥ずかしいカンニング事件に、この青年を追い込んだのは、何を隠そう親なのである。
無理をしないで、別の道を探ることもできたはずだ。
親が亡くなっているから、学費のことを考えて、京都大学を選んだのだろう。
そこまでして悩んで、威力業務妨害なんかになってはどうしようもない。
もっと親は、この青年の考えと気持ちを組みとってやるべきだったのだ。



大学に受かることがそんなに大切なことだろうか。
社会において、何をやるかのほうが大切ではないだろうか。
そんなに大学名が必要な社会ではなくなってきた。
親は、もっと世間の流れの変化を読み取るべきである。

2011年3月16日水曜日

小室直樹

最近面白いなあと思う人がいる。
いろんな本を読んでいるうちにふと出会った大人物。
小室直樹という人である。



小室 直樹(こむろ なおき、1932年9月9日 - 2010年9月4日[1])は、日本評論家社会科学者、社会学者政治学者経済学者政治社会学者、政治経済学者、法学者、法社会学者。
東京大学法学博士(1974年取得[2])。東京工業大学世界文明センター特任教授。現代政治研究所(東京都千代田区)所長。(Wikipesiaより引用)
 
 
 
とにかく何でも知っている。
政治、経済、数学、社会学、法学。
一人の人間でこれだけ博学な人をそう見たことはない。
相当に頭がいいのだろう。
 
 
 
彼の著作を何冊か読んだが、『数学嫌いな人のための数学 数学原論』は面白かった。
数学が意味わからずに、嫌いになった人におすすめです。
難しい計算式みたいなものはほとんど出てこないし、わからなかったら飛ばせばいい。
もう、数学が一体何なのかの基本が分かりやすく解説されています。
 
 
 
この人のことを色々調べているけど、大体分かったのは次のこと。
あまりに真実を分かりすぎて、しかもそれをはっきりと分かりやすく言ってしまうので、社会から受け入れられなかったのではないかということ。
誰かにとって都合が悪いことをバンバン言ってしまうので、干されたのだと思います。
 
 
 
でも、彼の著作は現代に生きる人に相当の知識と真実を教えてくれる。
それを活かせなかった日本に、今の衰退の原因があると言っても言い過ぎではないくらい。
 
 
 
おそらく小室直樹再評価の時期が、いずれ来るだろうと思います。
その時に、日本が手遅れになっていなければいいなあと願うばかりです。

2011年3月11日金曜日

憲法を変えるということ

今日は憲法改正について考えてみたいと思います。



日本の憲法を改正することが、少し前に政治のテーマになりました。
安倍首相の時だったでしょうか。
その時はいつの間にやら改正の話は立ち消えになってしまった。
改正するのに、国会議員の3分の2の賛成と、国民の過半数の賛成が必要であるという条件も、改正を難しくしている事実でしょう。



とにかく、この憲法改正の手続きに対する条件が厳しすぎる。
おそらく、簡単には変えられないように作られたからだと思います。
そして、それが戦後60年以上も続いてしまった。
アメリカも、まだあの憲法を使っているのかとびっくりしたという話も聞きます。



憲法は単なる文章です。
本来なら簡単に変えることができるはず。
何だかもったいない気がします。



憲法改正の際にいつも争点になるのが、9条の問題です。
これを守ろうとする人と、日本独自で国を守ろうとする人の間に妥協点が見つからない。



僕は昔は9条を素晴らしいものだと思っていました。
理想を掲げた文章であると、誇りのようなものを持っていました。
でも今は、国家のことを少しだけ勉強して、やはり時代に合わせて変えたほうがいいのではないかと思うようになりました。



僕はどちらかに肩入れはしたくはない。
どちらが正しいかも分からない。
でも、9条を守りたい人に言いたいのは、やはりどんな分野でも時代に合わせて変えていくことが大切だということです。
守りたいから変える必要があるということです。
伝統や歴史を大切にすることと、いつまでたっても変わらないということは別であるような気がします。
だから、とにかく両方が話し合って妥協点を見つけるための舞台を作らなければならない。
反対ばかりして、舞台に上がらないのはちょっと卑怯であるような気がします。



まずは憲法改正の条件を変えることから始める。
そして、舞台をしっかり作って議論を深める。
争うことが目的ではないということ。
それが、社会の活性化につながります。



みなさんは憲法改正についてどう思われるでしょうか。

2011年3月9日水曜日

素人の面白さ

僕はかなりの人見知りであるが、人間が嫌いなわけではない。
人間一人ひとりの持つ、予想外の動きに恐怖を抱いているだけの小心者だ。
神経が過敏すぎるのだろう。



とにかく若い頃は、人に興味があっても、メディアに取り上げられた著名人に関心がいってしまう事が多かった。
大作を残した文学者だったり、破天荒な生き方をしたミュージシャンだったり、テレビでよく見る女優だったり。
出会いの数そのものが限定されていたし、情報を得る手段が限られていたからだろう。



そして、現実世界のつまらなさに、吐き気を催してしまうこともあった。
脳内世界と現実世界のギャップの大きさにとまどうしかなかった。
なぜそこで、コマネチをやらないのか。
素人に対して、そう思ってしまう事もあった。



ある程度社会を渡ってみると、ふとした段階から、みんな大体同じなんじゃないかというものを感じられるようになってくる。
年齢や職業の垣根なく話せるようになってくる。
得体の知れない者同士の、社会の一員としての会話ができるようになってくるのである。
そして、そんなことを続けているうちに、素人の面白さに気づいていくのである。



お笑いの世界だと、欽ちゃんの素人いじりは素晴らしかった。
現代だと、明石家さんまの素人の扱いは群を抜いているだろう。
欽ちゃんも、さんまも、芸人としてはもちろんのこと、人間としても芸人という枠を超越しているように見える。



素人は何をするか分からない。演出が施されていない、自然の状態なのである。
だからこそ面白い。
欽ちゃんもそんなことを言っていたような気がする。



そして僕が言いたいのは、この世の中のほとんどが素人だと言うことである。
レストランに来たお客さんは、在庫の数を知らない。
区役所に相談に来た人は、分らないから相談に来ている。



プロとプロとの話し合いのほうが、話がスムーズにいくかもしれない。
しかし、予定調和になりがちで、新たな発見は少なくなるだろう。
だからこそ、素人が面白いのである。
今この時代に必要とされているのは、演出の施されたプロではなく、何も知らない素人の存在である。
街には素人が溢れている。これほどのチャンスはないではないか。



そして何を隠そう、こういう僕は、人生の素人である。

2011年3月4日金曜日

クリエーターと消費者の垣根

インターネット上での、クリエーターと消費者の垣根が、どんどん壊れているようです。



現代ビジネスの記事より。
クリエイターに対価を還元する「Grow!」



このサイトでは、まず、ポイントを買う。
そして、応援したいと思った作品に対して、「Growl」 ボタンをクリックする。
実に簡単な動きです。



基本的に、クリエーターの作品は無料。
そして、作品やクリエーターの活動に共感を覚えた人が、ボタンをクリックする。



こんな流れが日本でも流行ってくれば、楽しくなります。 
このサイトをきっかけに、取り上げられるクリエーターが生まれるかもしれない。
そして、あなたのイタズラ書きが、3億円で取引される可能性も高まりました。

2011年3月2日水曜日

近視眼的

僕は中学に入った頃くらいから、急に目が悪くなってきた。
最初は席を前の方にしてもらうことで対応する。
そのうちどうしようもなくなって、メガネを導入せざるをえなくなる。
今では0.1あるのかどうかもわからない。



目が良い人は、おそらく見えている世界が違うだろう。
もっと景色が鮮やかだろうし、通りすがりの人の鼻毛の本数なんかも瞬時に分かってしまうのだろう。



最近はやたらと、対象物との距離が近くなってきている。
街には建物があふれ。
そこにきて、さらにパソコンだ。
慣れてしまっているが、よく考えたらとんでもない距離感の縮小が行われている。



近視眼的とはよく言ったもので、近くばっかり見ていると、考え方も近くばっかりを見るようになってくる。
大きな思考ができなくなってくる。
僕は人間の脳みそは、宇宙とイコールだと思っているが、実際最近の僕の脳みそは、パソコンの画面とイコールになってしまっていた。



たまに、いや毎日決まって、一回視野を大きくすることが大切なのだと気づいた。
広いところを見てみることが、大切だと思った。



何もパラオに出かける必要はない。
空を見上げればいいだけの話だ。



まだ、かろうじて、東京にも空があってよかった。