2011年6月29日水曜日

高須光聖

高須光聖のことについて書いておきたい。
彼はいわゆる放送作家である。


高須 光聖(たかす みつよし、1963年12月24日 - ) は、兵庫県尼崎市出身の放送作家。他に、作詞家脚本家ラジオパーソナリティなど、幅広いジャンルで活躍している。自ら運営する会社・カイト所属。(Wikipediaより引用)


放送作家が具体的にどんなことをやっているのかはよく知らない。
テレビ番組の構成を考えたり、台本を創ったりする仕事なのだろう。


高須はダウンタウンと同じ小学校で育った。
そして、ダウンタウンに誘われて24歳の時に放送業界に入った。
ダウンタウンの数々の番組で欠かせない構成作家になり、ダウンタウンのブレインと呼ばれた。
その3人の同級生が今も第一線で活躍しているというのはすごい。


松本がアイデア、発想の天才なら、高須は組み合わせの天才だ。
松本から見れば、それは単なるパクリに見える。
しかし、組み合わせて人にわかるように提示しなければ、意味不明の作品になってしまう。
松本にとって、高須は必要不可欠な舞台監督だった。


高須の最近の動向を追ってみると、一つの才能が見えてきた。
物事を組み合わせて古いものを新しくすることにかけての才能がすごいのである。


こないだ高須はテレビでこんな趣旨のことを言っていた。


「サスペンスの中に、料理番組をはさんでみると面白いかもしれない。
船越さんが、何か料理を食べているシーンが多いなあみたいな」


確かに、料理番組もサスペンスもそれ単体ではマンネリ化している。
しかし、その二つをドッキングすることによって新たな世界が見えてくる。
緊迫したサスペンスの場面展開の中で、船越英一郎がなぜか料理を食べまくっていると、それは見慣れた光景とはまた違った新たな作品になる。


マンネリ化してしまったものを利用して、面白くしてしまおうとする彼の才能に驚かされた。
普通の人なら、料理番組の垣根を超えられないだろうし、サスペンスの筋を考えて面白くしようとするだろう。
そのアイデアの組み合わせの発想の大きさが、やはり一般人を超えている。



そんな高須氏が独り立ちしようとしている。
フィクショナルドキュメンタリーなるものを作っている。
ドキュメンタリーテイストでありながら、作り物であるというジャンル。
「70歳の暴走族の総長を追ったドキュメント」
「鼻血が止まらなくなった少年のドキュメント」
などを撮ったらしい。


物事がマンネリ化してつまらないように感じられる時でも、つまらないと言っているだけでは何も始まらない。
マンネリ感を逆手にとって利用してしまう彼のバイタリティに驚かされた。


これから彼はさらに活躍をしていくと思う。
目新しいものがないように感じられる世界に、光を灯してくれることを期待している。

2011年6月27日月曜日

全てにおいてプラス思考を貫くために

ライフハッカーの記事より。
プラス思考で恋愛や人付き合いを円滑に! - ライフハッカー[日本版]
 
 
プラス思考をするのは、本当に難しい。
ちょっと嬉しいことがあった時なんかは、プラス思考になるのだけれど、その気持ちを継続させることが難しい。


しかも、プラス思考を生み出すためにはものすごいエネルギーが必要。
十分な睡眠だったり、十分な栄養だったり、健康な身体だったり、安定的な生活だったり。
 
 
僕は人生の大半を、エネルギー不足に起因するマイナス思考で送ってきたので、現時点でマイナスな人生になっているのだろうと思います。
やっぱりプラス思考で考えると、ほとんどの問題はのり切れてしまうもんなんだという実感もあります。
 
 
ふと最近ポジティブに考えられる方法が身についてきたような気がします。
辛い事や、悲しいこと、苦しいことがあっても、真に受けるのではなく、一歩引いて考えてみることの大切さ。
この出来事は、自分の人生の中で、こういう意味を持っているのではないかと考えたり。
自分に不足していたチャンスを与えてくれているのではないかと考えたり。
何かが変わるきっかけであるのではないかと考えたり。
 
 
自分の存在を俯瞰から見るようにすれば、どんな出来事もポジティブに、前向きに考えられるようになるはずです。
まあこればっかりは場数を踏んでいくしかないんですが、ポジティブ思考のほうが断然に運がめぐってくることは間違いありません。
そして、そんなポジティブ思考を、口に出すことがさらに効果があるみたいです。
最初はちょっと恥ずかしいけど、プラス思考を声に出していこうと思います。

2011年6月24日金曜日

幼児教育の転換点

シブヤ経済新聞の記事より。
ワタリウム美術館で「驚くべき学びの世界」展-イタリアの幼児教育を紹介


ワタリウム美術館には一度行ったことがあるのですが、実にアーティスティックな空間です。
渋谷といえば大都会のイメージがあるけど、ちょっと中心部を離れると、閑静な住宅街や自然にあふれた場所があります。
そんな渋谷の片隅で、イタリアの幼児教育プロジェクト「レッジョ・アプローチ」を紹介する「驚くべき学びの世界展」が開催されるそう。


同プロジェクトはアートの創造的経験によって子どもたちの可能引き出しているのが特徴。子どもたちの「驚き」を記録し、育て、分析を続け、光や物、場所、言葉、エコロジーなどをテーマにさまざまなプロジェクトを作り出してきた。同展は、2001年に同館で開催された「子どもたちの奪われた『100の言葉』」展の続編。「書くことの魅力」「場所との対話」「アイデアとプロジェクト」など6つのテーマで23のプロジェクトを紹介。


気になるテーマばかりです。


「レッジョ・アプローチ」とは何だろうと思って、調べてみました。
以下は、「保育園キディの実践とレッジョ・エミリアアプローチについて」からの引用。


レッジョの教育理念


でも、百はある。
子どもには
百とおりある。
子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方、愛し方
歌ったり、理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには
百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならない
ものだと。
つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。
ローリス・マラグツツイ
田辺敬子訳


現時点で、僕も現実と空想のギャップに、頭とカラダがバラバラになってしまいそうです。


日本ではまだ本格的な導入はされていないみたいですが、ちらほら採用している幼稚園もあるとのこと。
つめこみ、ゆとり、日本の教育は時おり問題があると取り上げられるけど、意外と幼稚園教育から変えてみたらいいのかもしれません。

2011年6月22日水曜日

ロンブンとバカジカラの統合について

僕は現在ブログを二つやっている。
世の中の事象を学問的なアプローチで切り取る「カジバノロンブン」。
そして、普段の生活の中に、アート、芸術を見出して日々の生活を楽しくしていこうとする「カジバノバカジカラ」。


学問とアートは結びつかないものだと思っていた。
堅苦しい内容が学問で、アートはもっと自由なものだという固定概念があった。


学問であれば、誰かにはっきりと説明できると思っていた。
アートはなかなか人には説明できないものだと思っていた。


だから、二つのブログに分けて書いている。
別人格を使い分けていると言っても過言ではない。
学問は真面目に、そしてアートは不真面目に。


しかし、最近そういった区切りが全く無意味であるような気がしてきた。
確かに、昨日は原発の問題を扱ったと思ったら、今日は写真に一言ふざけた内容を書いている。
そういった人間だと信用がなくなってくる。
原発に関して真面目に意見を書いたのに、写真に一言ふざけた内容を書いたせいで、「なんだこいつはふざけているのか」ととられてしまう。


だから、二つのブログを使い分けている。
僕の中には、ものすごく真面目な人格と、お調子者の人格がいる。
みんなそうだと思うが、人間そう簡単に自分の性格を一つに決められるものではないと思う。


そういった不真面目な部分と、真面目な部分が、自分の中で統合されつつあるように思う。
分裂していたものが、まとまってきたと言ってもいいだろう。
社会の中で幼すぎた人格が、ちょっとだけ成長したような感覚を覚え始めた。


アートと学問を統合させること。
その一歩が見えたような気がしている。

2011年6月17日金曜日

私の中の曖昧な記憶

WIREDVISIONの記事より。
広告で生まれる「ニセの記憶」:研究結果 - WIRED VISION


記事では広告というものが、いかに人間の脳みそを支配してきたのかの歴史と実際の例が紹介されています。


確かにTVのCMの影響を受けて、今の時代はインターネットの情報を受けて、脳みそが書き変えられてしまう場合もあるでしょう。
物理世界と情報の世界が組み合わさって、全く新しい記憶を形成してしまう。
それは大変恐ろしいことのように感じられるけれども、新たな世界を生きる人間だけがが感じることの出来る新しい体験だと考えることもできます。


まあ現代の人間に、生活から広告を全く排除することはできないし、広告から喚起される自分の体験などもあるわけだし、一長一短です。
まず広告は嘘だと思ってみる姿勢も時には大切なのかもしれませんが、それだけではもったいないような気がします。
現代の人間に従来の広告手法が効かなくなってきたのも、面白い現象だと思います。


記事の中でも面白かったのが、下記の部分。


すなわち、記憶とは、常に変わらない情報が蓄積されているわけではなく、常に変化する「プロセス」であることが明らかになってきているのだ。いわば、思い出すたびに書き換えられるファイルのようなものだ。何かを思いだせば思い出すほど、記憶の正確さは失われて行く。
記憶の確かさと感じられるものは、あくまで、それを最後に思い出した時点での確かさでしかない。記憶の元になった刺激が存在しないため、想起される記憶は変化している。そして、「実際に記憶している内容」から、「記憶したいと思っている内容」に近くなっていく。


つまり記憶は曖昧であり、思い出すたびにその精度を欠いていくということなのでしょう。
「実際に記憶している内容」から「記憶したいと思っている内容」に近くなっていくというのは、思い当たるフシがたくさんあります。
自分の記憶を他の人に聞いてみたら、全く違う内容だったり。
自分の都合のいいように、記憶を書き変えているのでしょう。


だからこそ正確な情報を、その時々で脳ではない別の媒体に記録していくことが重要なのかもしれません。
カメラであり、メモ帳であり、ボイスレコーダーであるものが、実は携帯電話なのかもしれません。
携帯電話におまけとしてついてきた機能が、本来の通話機能を凌駕し、完全にひとつで完結するデジタルツールになるかもしれません。


そして、コンピューターの記憶と人間の記憶の間に、新たなコラボレーションが生まれてくるような時代になってくるでしょう。
人間にしかできない「考える」ことの意味がさらに問われてくる時代になってくるでしょう。
以前は恐ろしい時代だと思ったけれど、ちょっと楽しみになってきました。
人間の脳がどこまでコンピュータに勝負できるのか。どこで勝負できるのか。

2011年6月15日水曜日

瞬間エネルギーサイクル

ギズモードの記事より。
立ちション界に大革命! おしっこでカラフルに落書きできる壁 - ギズモード・ジャパン
 
 
たしかにこれは立ちション界にとっては革命的な出来事だ。
 

このお手洗いのおしっこをする壁はなんと熱に反応して色を変えます。
 
 
人の家の壁に立ちションをするくらいなら、このトイレに向かって放出したほうがエネルギーの変換が目に見える形で感じられて、学びのチャンスになる。
 
 
熱に反応して色を変えることができるんだったら、その熱を他のエネルギーに使って欲しい気もする 。
おっしこの熱を、一人分の水を流す電気と、手洗いの水の電気くらいのエネルギーに変換できるようになった時点で、本当のエコだと言える。
 
 
そんな時代ももうすぐ来るだろう。
全くエネルギーを無駄にしない仕組みが、今もどこかのトイレの近くで作られている。

2011年6月13日月曜日

怒れるオヤジよ、戻ってこい

ライフハッカーの記事より。
怒りを物事を好転させるきっかけに変えよう! - ライフハッカー
 
 
怒りは人間にとって自然な感情です。
まあ、そのほとんどがしょうもない原因から生じているので、後から考えると反省しきりなのですが。
僕の場合は、お腹が減っているというのが、怒りの原因の8割以上を占めます。


大人になればなるほど、怒ることは悪いことだという変な流れになっていくような気がします。
怒っている人には、大人気ないというレッテルが貼られます。
日本特有の感覚なのでしょうか。小さな共同体を守ろうとする島国だからでしょうか。
海外の人は毎日しょうもないことで何度も怒っているイメージがあります。
コーヒーが熱いからヤケドしたと、店側を訴えるイメージがあります。


昔に比べて、街角や、電車の中で怒っているオヤジが減ったという話も聞きます。
確かにそうなのかもしれません。
他人に関わるとロクなことになりかねない。触らぬ神にたたりなしの空気が蔓延しています。


私たちが直面する小さなイライラのもとは、行動して物事を変えるよい機会になります。文句を言って、人生の大事な時間を怒って過ごす代わりに、イライラのもとを解決することもできます。みんながそうすれば、世の中の小さなイライラの種が大幅に減ることでしょう。


怒れば怒るほど、さらにイライラしてくるのは、体験としてみなさんわかっているでしょう。
怒りをぶちまけるのではなく、 いったん冷静になって、イライラを行動して物事を変える機会だと捉えて、次の展開に持っていけるのがベスト。


怒りを、なにかが変わるきっかけ、何かを変えるきっかけだと捉えて、ポジティブに過ごしていけたらいいですね。
世のお父さん、お母さん、もっと怒ってください。
若者は怒ってくれる大人を求めています。

2011年6月10日金曜日

全員が同じ動きになったら

WIRED VISIONの記事より。
株価暴落の初期サインは「連動性」


株価というと、僕みたいな素人は、一般に経済学の分野だと認識してしまう。
しかし、この記事のように、値動きを物理現象として捉えてみると、また違った見方ができる。
一つの見方だけでは物事は判断できないということのよい例であると思った。


市場が健全なときは、連動性は弱い。しかし、株価暴落に先立つ数カ月から数年の期間には、連動性が強まる傾向を示す。その状態になると、株価の上下動や現状維持は、すべて連動して起こる。投資家たちはみな互いの動きをまね、わずかな刺激によって全員が同じ方向へ走る。この状態に陥ったシステムは、崩壊に瀕していると考えられる。



株価暴落を前もって完全に予測することはできないのだろうが、このような取り組みが、人間の心理の探求にも活かされる様になったら面白いのではな いかと思う。


全員が同じ方向に向かっているシステムは、崩壊に瀕していると考えられるのは、世の中のどのシステムにも共通する現象なのではないだろうか。
例え20年後、30年後に崩壊を迎えるとしても、全員が同じ動きしか取れない状態は不健全である。
そのシステムは、現時点では動いているのかもしれないが、新しいものを生み出す機関としては、役目を終わっている。


人間が同じ方向に向かう動きの前兆を前もって計測することができれば、あらかじめ危機は避けられる。
人類のあらゆる活動を計測するシステムが構築され、危機の回避に活かされるようになったら面白い。

2011年6月8日水曜日

フェイスブックの爽快体験

久しぶりにフェイスブックにログインしてみました。いまだに使い方はよくわからないけれど、半年くらい使ってみて、フェイスブックの醍醐味が少しだけわかったような気がしました。

加治雄希のフェイスブック


画面を何となく眺めていたら、「あなたのお友達かもしれませんよ」というフェイスブックからの提案のコーナーみたいな所が目に止まった。
そこのコーナーを見ていると、大分の高校時代の友人を複数発見。
2ヶ月ぶりくらいのログインだったから、その間に新たに始めた人も多いのかもしれません。


とりあえず友達申請を出してみた。
そしたら、すぐリアクションが返ってきた。
その友達は結婚していて、お相手の方の写真も掲載していました。
仕事先も変わったみたいで、楽しくやっている雰囲気が伝わってきました。
年賀状と日記と、活動報告と宣伝と、名刺と連絡網と、一気に解決してくれる素晴らしいサービスだと改めて気付いたのでした。

 
電話番号を知っている同じ高校の同級生でも、そう滅多に連絡するもんでもない。
まして「最近どうしてる」なんていちいち電話したら、みんな忙しいんだから、相手にとっては余計なお世話になることもあるでしょう。
そんな時にフェイスブックで友達登録をしておくと、その友達の動向が何となくわかってきて、嬉しくなってきます。
メッセージだけ出しておいて、後からお互いの都合のいいときに連絡をとることもできる。
メールとはまた違った距離感が爽快です。


日本人には、遠く離れてしまったり、長い間会っていなかった人の確認手段としてのツールとしての使い方が適していると思われます。


mixiと何が違うのかとも考えたのですが、フェイスブックは基本的に実名でやるもの。
それだけの責任と覚悟を持っている人のツールです。
したがって、ビジネス、人脈作りにも活用できるし、自分のやっていることの宣伝もやりやすい。
そして、その情報の信頼度がmixiより高い。
僕はフェイスブックのほうが好きだ。


過去と現在が一気につながって爽快だったので、みなさんもフェイスブックに登録だけでもしておくのをおすすめします。
半年後くらいに、影響力の大きさが実感となって帰ってくること間違いなし。
僕は友達5人しか登録されていないのに、そう思いました(笑)

2011年6月6日月曜日

自分の領域を取り戻すこと

ダイアモンドオンラインの記事より。
ストレスを感じるのは、頭の中で自分以外の領域に踏み込んでいるから


ストレスに対する対処法は、色々なところで目にするのですが、この記事のような見方は目からウロコでした。


世の中には、自分の世界と、あなたの世界と、神の世界の3つがあるということ。
なるほど。
神の世界とは、日本的に言えば、自然の世界でしょうか。


誰かにとって最善のことを自分が知っていると考えるのは、自分の領域を離れることになります。愛という名の下であっても、まったくの驕りであり、緊張や不安、恐れを招くことになります。あなたのために問題を解決しようとする前に、自分自身にとって何が正しいかを知ることが、私にとっての唯一の領域です。
 
 
自分では相手に対する愛だと思っていても、それが相手になかなか伝わらない。


若い頃の恋愛では、そのじれったさに、頭が狂いそうになりました。
どうして俺の気持ちがわかってくれないのか。
きみのためを思っているのに、なぜ、君は応えてくれないのか。
そして、膨大なエネルギーは、関係の崩壊とともに、宇宙の彼方に消え去ってしまいました。


あなたのために問題を解決する前に、まず自分自身にとって何が正しいかを判断すること。
こういった考え方は、個人がしっかりしている文化ゆえの発想でもあるのでしょう。


日本では、人々が、国のため、会社のため、集団のため、といった自分の領域を離れた問題をたくさん抱えているので、ストレスが多いのかもしれません。


迷ったとき、問題を解決したいときは、まず自分の領域をしっかりと取り戻すことを意識したいと思います。

2011年6月3日金曜日

本田がリバプールと契約

以前このブログ「カジバノロンブン」の記事で、本田選手がリバプールと契約するかもしれないという記事を書いた。

本田選手、リバプール移籍か


まあ可能性は低いにしても、リバプールファンとしては楽しみな話題だった。
伝統はあるが、毎年6位ぐらいの中途半端なチームに新たな風を歩かせてくれるのではないかという淡い期待を感じた。


そして、この間インターネットでサッカー記事を見ていたら、もっと確定的なタイトルの記事が出ていた。


本田がリバプールと契約、契約期間は3年 –サポティスタ


よし!
これは流れがきた。
やっぱり俺の期待は叶えられたのだと思って、おそるおそる記事を読んでみたら、リバプールが世界の「HONDA」と契約するという内容。
本田圭佑ではなく、本田技研工業。
がっくりしたと同時に、何が現実なのか一瞬わからなくなった。


最近はこういったすれ違いによく遭遇する。


こないだの日本代表、キリンカップ、ペルー戦。
久々にテレビで日本代表の試合を見た。
翌日職場の人とサッカーの話題になった。


同僚「昨日のサッカー、仕事で忙しくて見れなかったよ」
僕「引き分けでダルダルの試合でしたよ。最近テレビをあんまり見ていないんですけど、日本代表の試合、久々にテレビで見ましたよ」
同僚「どのくらいぶり?」
僕「もう3ヶ月くらいは見てないですね」
同僚「いやだって、3ヶ月くらい試合なかったろ」


世間の情報についていけなくなってきている。
しかしながら、大切な試合だけは何とか押さえていきたい。
チャンピオンズリーグ決勝、「バルセロナ×マンチェスターユナイテッド」の試合もすごかったらしいので、1ヶ月遅れで観る予定だ。

2011年6月1日水曜日

人間はもういらない

Slashdotの記事より。
情報技術によって高学歴者の需要は低下した?



たしかに今までの高学歴の人の役割に、その高い情報処理能力を活かすというものがあった。
でも、それがどんどんパソコンに取って代わられてきている。


パソコンは文句を言わない。
パソコンは正確だ。
パソコンはとにかく速い。


世の中のほとんどのシステムをパソコンとロボットに担当させてしまう事も可能だろう。


これからの人間は、働くことに必死にならなくてもいいようになってくると思う。
優秀な人、システム自体を創り出すような人が儲ける。
そして、それ以外の人はわずかなお金で遊ぶように暮らしていく。


まあそれが100年後の話かもしれないし、日本ではもっと遅くなるだろうから、今生きている世代はとにかく働くしかないのかもしれないが…。