2010年9月29日水曜日

都会の自然

糸井重里さんのつぶやきにこんなものがあった。

都会にいるときのたのしみは(苦しみもだけど)、ほとんどが人間のすることに関わっている。人間が都会の「ほとんどの自然」なんだろうな。 2010年9月20日 @itoi_shigesato

なるほど。

今まで僕は、人間という存在を、自然と分けて考えすぎていた。

都会に山や川は少ないかもしれないけれど、人間だけは異常に多い。

それを「ほとんどの自然」だと考えてみると、何だか少しだけ気が楽になった。

人間がすることは本当に楽しい。

人と人との間に発生するものは本当に楽しい。

それさえも自然だと言える糸井さん。

まだまだ僕には経験が少なすぎる。

2010年9月23日木曜日

検察

今回の検察のフロッピーディスク改ざん事件を見て思ったことがある。

事件の整合性をあわせるために、でっち上げ見たいな事を過去にも繰り返してきたのだろう。

国家の安全と秩序を守るという使命感を持ってもいるのだろう。

しかし、事実をごまかしてまで安全を守ってほしいわけではない。

そこはやっぱりきっちりやってほしい。

俺は検察だという意識がいけない。

検察という役割を果たしているだけであって、何でもありなわけではない。

その境界線があいまいになった時に、権力にしがみついてしまう、力の大きなほうに巻かれてしまうのである。

同じことは役割に対する意識に関してもいえる。

警察官だから悪い事をしないわけではない。医者だから人を殺さないわけではない。

何が言いたいのか分からなくなってきたが、前提として、自分はまず人間であるという意識を失ったらおかしくなるのではないかと思うのである。

2010年9月21日火曜日

食べログ

みなさんは「食べログ」をご存知でしょうか。

各地の料理店のランキングと口コミが乗っているサイトです。

食べログの効果で、京都の片田舎にある牛丼のお店が大人気になったり、市街地から車で一時間くらいかかるカフェに行列ができたりしているそうです。

それとは逆に東京では、高級料理店の価格破壊がネットで始まっています。

ある程度のお客さんの予約が集まったら、フランス料理のフルコースが半額で食べられるといったようなもの。

地方と東京という、かつてはどうしようもなかった地域差が、ネットの力によって縮まっている。

価値観の転換と言いましょうか、物理空間だけでは不可能だったことが可能になっていることに、何だかうれしくなりました。

こういった価値観の変換をもたらすサイトが、これからどんどん出てくると活性化につながります。

楽しみです。

小沢一郎

この間行われた民主党の代表選。

菅直人氏の勝利で終わりました。

僕はこうなったら、小沢一郎氏に首相になってもらい、一からぶっ壊して欲しかった。

菅さんには、政治理念があるように思えない。

自分の中に、確固たる軸があるように思えない。

周りの意見を聞きすぎて、何だかコロコロ変わっているように思えます。

そんな人が日本のリーダーで、果たして良いのだろうかとおもう。

政治家っていうのは、表社会のヤ〇ザみたいなもんだ。

政治を勉強してきたエリートだからといって、こなせるような職業ではない。

もっと泥臭い商売なのだと思う。

国内だけ扱うのだったらいいのだけど、外国とのやり取りがあるんだから。

小沢一郎には、そんな泥臭さがある。

メディアのイメージ戦略を鵜呑みにせず、もっと彼自信を知ろうとしなければならない。

ちょっと最近、政治が安くなりすぎている。

国が安くなりすぎるのは心配です。

2010年9月20日月曜日

動く世界地図

世界の歴史の動きをビジュアル化したFlashがすごい

こういったツールがあったら、もっと歴史の勉強が楽しくなったかもしれません。

これから電子教科書も普及して来るだろうし、これからの子どもたちの勉強はさらに楽しくなっていくことでしょう。

もうちょっと後に生まれたかったな(笑)

2010年9月17日金曜日

何気ない日常

サッカー前日本代表監督の岡田氏と、アスリートの為末大氏が会食を行ったときのやり取り。何だか素晴らしいと思いました。


なんでもない日常を、愛せるかどうかという為末氏の言葉。忘れていたものを、思い出した。


日常には感動があるもんだと、思い込まされて、感動を受けたいという気持ちばかりが先行して、毎日を愛することを忘れがちになっていました。


作られた感動でなく、何気ないものを求めたい。

そして、感動を作れる人間になりたいと、改めて思ったのでした。


アスリートから学ぶことは多い。

2010年9月3日金曜日

エリートとは何か

エリートélite)とは社会の中で優秀な能力や影響力を持つ人間や集団である。

   (WIKIPEDIAより引用)

日本はエリート教育について、狭い視点しか持っていないのではないか。

東大ー財務省ー総理大臣みたいなのしかエリートとしか思っていないように見受けられる。

僕から言わしてみれば、ものすごい勢いで皿を回す人もエリートだし、ものすごく点を取る人もエリートだ。

ようは普通の人間が到底及ばないような、限界を超えた力を持っているかどうか。他の人にまねできないような力を持っているかどうか。

日本では、そこらへんの柔軟性が薄いような気がする。その人自身の魅力や能力ではなく、権威や大きな流れに巻かれてしまいがちである。

これからは、自国のことばかりでなく、海外との競争を視野に入れた上で、幅広いエリートを育てなければならない。

「なんの役に立つの?」と思えるようなものが、新しい流れを生み出すかもしれない。他業種と、グローバルにつながって発展していくかもしれない。

現状より少し先の視点を持ちながら、真のエリートを育てていかなければならない。

ベーシックインカム

ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で支給するという構想[1][2][3][4]基礎所得保障基本所得保障とも、また国民配当[5]ともいう。すくなくとも18世紀末に社会思想家のトマス・ペインが主張していたとされ[6]1970年代ヨーロッパで議論がはじまっており、近年になってから日本でも話題に上るようになっている

   (WIKIPEDIAより引用)

とにかく貧乏人にも金持ちにも一律月額一定額を支給するという政策である。

それによって、生活保護も、社会保障費も、ベーシックインカムがあるから文句を言わないでくださいということになっていく。

このやり方によって、現代で失われている挑戦への機会が格段に増える。

失敗したとしても、最低限食っていくだけのお金はもらえるからである。

最低限もらうだけで、頑張らない人が増えるのではないか。

僕は、ベーシックインカムのデメリットの方ばかりに目が行きがちになり、最初は反対だったが、メリットのほうだけで、やってみる価値はありそうだなあと思うようになった。

現実の、生活に関わる問題だけに、そう簡単に実験してみることは難しいかもしれないが、20年以内には、ベーシックインカムは適用されていてほしい。

社会保障と、挑戦という、ふたつの問題を一挙に解決できる可能性があるからだ。

同情、哀れみ、共感

ツイッターの@sasakitoshinao さんのツイートで非常に興味深いものがあった。同情や哀れみ、そして共感という感情についてのやり取りが行われていた。

同情や哀れみは上から目線だからダメなんだと思います。障害による欠落=哀れみではなく、健常者も障害者もだれもが欠落を抱えていて、その欠落をお互いに補完しあえる関係を構築しようというのが、共感。

同情は苦しむ人を増やす、哀れみは相手を弱くする、共感は相手の感情を認めて軽くしてあげること。その違いが日本人にはなかなかピンとこない。

同情や哀れみは個人的感情、共感は社会的感情ということですかね。キリスト教社会では富める者が施しをし、公共に奉仕するというのが宗教倫理を核として共感されていると。日本でそれに対応するものはあるんでしょうか。

(8月30日の@sasakitoshinaoさんのタイムラインより引用)

現代では、共感という感情が失われつつあるような気がしてならない。

コミュニティの崩壊、人間関係の希薄化が進んでいく中で、個人的感情である哀れみや同情の感情で終わってしまっている感じがある。

共感という感情は、自分と相手を一つの存在として考える。

人々が自分の生活でいっぱいいっぱいなのは理解できるのだが、社会において、もっと共感の感情を発揮してもよいのではないかと思った。

ちょっとした心がけで、社会がうまく回りだすのだから。

学校の勉強

今振り返っていると、学校の勉強ってなんだったんだろうかと思う。

「今から、歴史の授業を始めます。それでは教科書の14ページを開いてください」

当時は当たり前のように、指示にしたがって教科書を開いていた。

しかし、肝心の、「なぜ歴史を学ばなければいけないのか」という説明もなしに始めるから、単なる単語の暗記ばかりを繰り返していたように思う。

「歴史を学ぶことによって、現在に生きる我々のヒントになるかもしれん。それでは14ページいってみよう」

みたいな説明があったら、どれだけ楽しかったことか。

「ヴィルヘルム2世が当時行ったのは~」

事柄ばかりの説明に、途中からわけが分からなくなっていった。

現在の教育に欠けているのは、まず大まかな流れを、大人が語ること。

学ぶことの意味を語ることなのではないだろうか。