ツイッターの@sasakitoshinao さんのツイートで非常に興味深いものがあった。同情や哀れみ、そして共感という感情についてのやり取りが行われていた。
同情や哀れみは上から目線だからダメなんだと思います。障害による欠落=哀れみではなく、健常者も障害者もだれもが欠落を抱えていて、その欠落をお互いに補完しあえる関係を構築しようというのが、共感。
同情は苦しむ人を増やす、哀れみは相手を弱くする、共感は相手の感情を認めて軽くしてあげること。その違いが日本人にはなかなかピンとこない。
同情や哀れみは個人的感情、共感は社会的感情ということですかね。キリスト教社会では富める者が施しをし、公共に奉仕するというのが宗教倫理を核として共感されていると。日本でそれに対応するものはあるんでしょうか。
(8月30日の@sasakitoshinaoさんのタイムラインより引用)
現代では、共感という感情が失われつつあるような気がしてならない。
コミュニティの崩壊、人間関係の希薄化が進んでいく中で、個人的感情である哀れみや同情の感情で終わってしまっている感じがある。
共感という感情は、自分と相手を一つの存在として考える。
人々が自分の生活でいっぱいいっぱいなのは理解できるのだが、社会において、もっと共感の感情を発揮してもよいのではないかと思った。
ちょっとした心がけで、社会がうまく回りだすのだから。