2011年2月28日月曜日

キュレーターがいてくれて本当によかった

世の中には様々なジャンルのキュレーターがいます。


キュレーター (curator) とは、欧米の博物館美術館含む)、図書館公文書館のような資料蓄積型文化施設において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職管理職を指す。(※curate―展覧会を組織すること)
(Wikipesiaより引用)
 
 
大雑把に言ってしまえば、あるジャンルの案内役とでも言えるのでしょう。
専門的な知識を持たない人々に、わかりやすく解説してくれる人々。
全く自分に関係ないような専門分野を、一から勉強している時間は現代人にはありません。
彼らがいてくれるおかげで、全くわからない、もしくは興味のないジャンルの事柄が、いつの間にか面白く感じられるようになっていきます。
 
 
 
現代では、ネット上に様々な情報があふれています。
嘘かホントか、しょうもないのか、とても重要なのか。
判断するのは最終的には自分だけど、受け身になってなんでもかんでも信じ込んでいると、テレビ時代と変わらない。
その際に、自分のなかに信頼できるキュレーターを持っていると、情報の信頼性が高まるのです。
 
 
 
キュレーターの情報を元に、自分の考えをまとめ、アウトプットする。
大切なのは、自分の頭で考えて、自分の考えを作り上げること。
その際のきっかけとなる、情報入手のスピードがキュレーターの劇的に上がり、効率がよくなりました。
 
 
 
専門家とそうではない人との距離が縮まったこと。
これは改めて、すばらしい時代であると思います。
そして、人それぞれが何かの専門家として情報を提示していく。
情報そのものの回転スピードが上がっていって、よりよい世界になっていくのだと思います。



みなさんも、恐れずに発信を。

2011年2月25日金曜日

HIV

GIZMODEの記事より。

初めてです! 正式にHIVが完治したと診断された男


HIVというものは、何だか成人病とか肺がんとか、そういった病気とは別次元のイメージがあります。


おそらく成人病や肺がんは、この先IPS細胞の発展によって人類は克服できるでしょう。
臓器を交換すればいい話だから。
しかし、HIVは免疫の問題です。
全体的に悪くなるからどうしようもない。


こないだテレビで、HIVはアメリカが意図的に作ったものだという噂話みたいなものが放送されていた。
戦後、日本軍から入手した細菌技術なども参考にしているらしいです。
薬を売る為や、人口調整のためにあらたな病気が人間によって作られている可能性も無きにしも非ず。
大人の世界は怖いです。


そういった目で世の中を見てみると、消費の流れを人々の間に起こすために、意図的に悪いものを流している大人たちの存在もなんとなく見えてきます。


しかしながら、悪いことばかりでもありません。
HIVを克服するために色々研究しているうちに、人類にとっての新たな発見も生まれてくる。
世の中複雑で難しい。
まあ、いいも悪いも物事の裏表みたいなところがあるから、とにかくやるしかないってことか。

2011年2月23日水曜日

IT時代の暴動

エジプトで反政府デモが起きた。
ムバラク政権は崩壊し、長期独裁が終わった。のだと思う。


アフリカに政権交代の風が吹き荒れて行くことになるかもしれない。
つまり、今までのやり方が古いというだけの話である。
アフリカに生きている人も、自分たちに住みやすいやり方のほうがいいに決まっている。


この動きにFacebookやTwitterが大きな役割を果たしていることは、現代ならではの動きだと言えよう。
政権のやっていることがネット上に出てくる。
FacebookやTwitterで情報が拡散されていく。
人々が携帯で撮った動画などのリアルな情報も、あっという間に全世界に拡散される。
日時と、場所を指定して、集まろうと思えば集まれる。
すごい時代になったものだと思う。


WIRED VISIONの記事に衝撃的な動画があった。閲覧注意。何だかよくわからない、黒こげの物体が映っている。人間なのかどうかもわからない。
リビア:無差別攻撃と「見せしめ火刑」(動画)


次はリビアである。
カダフィという人物は、なかなか手強いように思う。
そう簡単に政権を手放す人物ではないような気がする。
動画には、デモに対して発泡するよう命じられた政府の高官が、命令に背いたため、見せしめに焼き殺されたという映像が映し出されている。
リビアではネットが停止されているらしいが、詳しい人が配信させているのだろう。



映像の内容は、本当かどうかは分からない。
しかし、こういった映像が民衆の蜂起のために使われるとしたら、効果はかなり大きなものになる。
社会に与える影響は計り知れないものになる。


嘘か本当かはもう、どこまでいっても分からないが、政府と民衆の衝突の契機になることは間違いない。
その際に重要なのは、現代のネットと携帯カメラが発展した社会において、無駄な死人が出ることが避けられるのではないかということである。


かなり楽観的な見方かもしれないが、証拠が世の中に配信される可能性が高まれば、政府も下手なことはできなくなる。
合理的な判断を下すことを全世界から迫られる。
これは非常にスマートなことだ。
現代にそんなに争っている時間はない。
双方が合理的な判断を下す時に、ネットの力は非常に有効なツールになっている。


リビアでの今後の動きが気になるところである。
素早い決断が、この国で行われれば、ネットによる素早い政治決断のプロセスが有効であることの証明になるようなきがするのである。

2011年2月21日月曜日

生産性の終焉

何となく、最近思ったことがあった。
それは、この世の中において、物理的な生産の終焉が来ているのではないかということ。



かつて日本はその生産力で、経済世界一を達成した。
モノを作って売る。
確かな技術力と、まだ安かった労働力によって、モノが売れたのかもしれない。
まだ世の中に、モノがなかったので、売れたのかもしれない。



人間にとって、生産性のないことほど辛いものはない。
何か新しいもの、プラスになるものを生み出すことが、人間にとっての明日への活力になる。
それが、必要とされなくなってきた。
ただ単純に、人間がモノに飽きてきているということなのかもしれない。



効率よくモノが作れるようになった現代。
すでにモノの正解が出尽くしているように感じる。
類似品やバリエーションをそろえたところで、人間の欲求はそう簡単には刺激されなくなってきた。



物理的なモノの生産には限界がある。
そこでだ。
まず一つ目。
オプションサービスの概念が発達してくるように思われる。
電車の個室化が進んできたり。特定の車両に入る際に、スイカをタッチ。



二つ目。
僕は何度も推しているのだが、日本人に希薄な寄付の概念を、商品とドッキングさせる。
たとえば、捨てられた犬の保護に対する寄付を缶ジュースの料金に組み込む。
以前から言っているように、自販機の巨大ディスプレイの登場によって、それが可能となった。
寄付という言葉が定着しないなら、応援。
遠く離れて、自分の生活圏では決して出会わないような人の活動に対する応援を、行動に移せるようにする。



三つ目。
インターネットによるさらなる流通の簡略化。
アマゾンで、食料品が買えるようになるそうである。
つまり、買いに行く時間の極端な短縮を図る。
仕事中の10分間で、来月の生活用品がすべて決まってしまうような、流通の短縮。
そして、インターネットにおいて、お年寄りでもわかるような決済方法の開発をすすめる。
居酒屋のタッチスクリーンよりも、さらにわかりやすい商品選択画面を作る。



僕は商売っけがない人間なので、甘い考えかもしれない。
でも、近い将来そうなっていくような気がしてならない。

2011年2月18日金曜日

芥川龍之介の映像力

僕は今まで、色々な本を読んできました。
その中でも、芥川龍之介ほどの映像力を持った人を僕は知りません。



「芋粥」、「トロッコ」、「羅生門」。
子どもでも理解できるような、わかりやすい内容。
それでいて、彼の作品には、大人もギクリとさせられるような深い教訓が隠されている。



そして何と言っても、彼の持ち味は、その文章から漂ってくる映像の世界のリアルさです。
彼の文章を読み進めていくうちに喚起される映像の強烈さは、読んだものにしかわからない不思議な感覚です。
どうしてあんな文章が書けるのだろう。



最近は年をとったのか、小説を読む機会がめっぽう減りました。
ふと、芥川のことを思い出したとき。
それが、再び彼の作品を読み返すタイミングなのかもしれません。

2011年2月16日水曜日

Lang-8

英語で日記を書き、ネィティブに添削してもらえるサイトがあります。
http://lang-8.com/
Langー8というサイトです。



以前面白いと思って、僕のブログで紹介しました。
そして、実際にやってみました。
こないだテレビでやっていた、ビートたけしが出ていたテレビについての考えを英語で書いた。
日本人の宗教観についてのテレビでした。



そしたら、アメリカの19歳の女の子が添削してくれました。
「あなたの英語はかなりいい。でも、’a’と’the’の使い方がまだまだだ」
みたいなことが英語で返ってきたのです。



改めてすごい時代だなあと思いました。
海の向こうの人が、日記の間違いを正してくれる。
同時に、知らなかった人とのコミュニケーションが始まる。



正直、最初はどうなることかとビクビクしたけど、学ぶ姿勢があったら、添削してくれる人はどこかにいます。
今度は、日本語を学ぼうとしている海外の人の文章を、僕が添削してみようかな。



利用は無料です。
みなさんも是非やってみてください。
実際に文章を書いてみると、英語の理解も深まって行きます。

2011年2月14日月曜日

さるかいふく

GIZMODEの記事より。

再生医療もここまで来たか! 脊椎損傷で体が麻痺して動けなかったサルが歩けるまで回復! 慶大



ここ数年、医療技術がものすごい勢いで進歩している。
もうありがたいの一言に尽きる。



そこで、考えなければならないのは、どんなに技術が進歩しても、人間にしか救えない部分があるということだ。
患者の話を聞いてやることは、人間にしかできない。
患者の不安を取り除いてやるのは人間にしかできない。



あらゆる業界の技術の進歩によって、人間の力が衰えているような気がしてならない。
技術に甘えてしまっているように思えてならない。



人間は様々な関係の中で生きているということを、改めて考えていきたい。

2011年2月11日金曜日

八百長なんか、どうでもいい

今回の相撲の八百長問題。

僕は相撲に八百長があってもいいと思っている。

それを分かっていて、楽しんでいる人もいる。


賭けの対象にもなっていた。


しかし、問題はそんなとこではない。




一番の問題は、八百長に加担しなかったもの、世界になじめないものを排除したことだ。


具体的に言うと、朝青龍を引退に追い込んだことだ。


相撲社会における掟を守らないものを排除する。


そういった排他的システムが問題なのだ。




朝青龍は強かった。


ただ強いということで人気があった。


普段の行動に問題があるとか、横綱の器が足りないとか言って攻撃していたのは、相撲社会の
ルールに従わない朝青龍への意味のない攻撃だ。


普段の行動は、相撲とは関係が無いプライベートの範囲。


器が足りないのは、外国人だからしかたがない。日本の文化を徐々に紹介して、よろしくお願いしますという姿勢があればよかったのだ。




こういった気持ち悪い体質、意味のわからない同調圧力は、日本社会の至るところに溢れている。


個人の能力や実力を、客観的に判断できない。


周りの空気を読むことや、集団の輪を乱さないことに力を使う。


そんなことを続けているから、その業界自体がつぶれてしまうのだ。



以前に朝青龍への意味のない攻撃について、僕は警告を鳴らしていた。


しかし、僕のような一般人の意見など、聞き入れてはもらえない。




相撲を愛する人たちにはガッカリである。


古い体質に安住しようとしていなかっただろうか。


大切なものを守ろうとする気持ちがあったのだろうか。


伝統でも、新しいことでも、とにかく変化していくしかないのである。


現代の日本を象徴している出来事だと言えよう。

ふがいなさに、悲しみだけが残る。

2011年2月9日水曜日

走行距離

サポティスタの記事より。
http://supportista.jp/2011/01/news26091549.html



最近サッカー界でも世知辛いことになっている。
選手の走行距離データが出せるようになってきたからだ。
歩いている時間、ランニングの時間、トップスピードの時間などもデータで見れるようになってきた。
これを元に監督に判断されるようになったら、選手もきついだろう。



面白いのは、各選手のプレーしているグラウンドでの領域がわかるようになっていること。
どこらへんで主にプレーしているのかが、色の違いによって視覚的にわかるようになっている。
このデータが一番重要であろう。



11人も選手がいるのだから、選手が同じとこばかりにいてはこんがらがってどうしようもなくなる。
そういった時に、データを元にすると、各選手へのアドバイスがかなり的確になってくるだろう。



ITの活用によって、よりスリリングな試合展開になっていくことは間違いない。
こういったシステムが、普段の生活でもより身近に使われるようになってきたら面白い。

2011年2月7日月曜日

こないだの朝まで生テレビ

2月4日、深夜の「朝まで生テレビ」が非常に面白かった。
 
テーマは「激論! 日本は本当にダメな国なのか」
 
堀江貴文氏と東浩紀氏が出るので、非常に楽しみにしていた。
 
 
 
冒頭からエジプトのデモの中継。
 
そして、番組のツイッターとの連動。
 
経済問題に話が移り、最後のほうでは日の丸、君が代の問題になった。
 
話題が多すぎて、収集がつかない。
 
現場にいたパネリストの人は、さぞかしやりにくかったことだろう。
 
 
 
時折、エジプトの中継を入れて、何かを煽っているようにも見えた。
 
それにつられて、議論も感情的なものが多くなっていた。
 
そのやり方も、少し古いように感じられた。
 
 
 
番組の終盤では、話題が「国民は国を守るべきか」という話になる。

 
 
将来の戦争は勝利に終わるのではなく、相互の全滅に終わる。-ラッセル-
 
 
 
最近は、国対国の戦争という単純な図式でもなくなってきた。
 
背後には経済的な問題も深く絡んでいる。
 
ただ単純に領土を拡大して、資源を獲得しようとするための戦争も終わった。
 
後から話し合って、取引をしたほうがリスクが少ないから。
 
                  
 
そして、ここに来て、新たなメディアが加わった。
 
ソーシャルメディアの発展によって、民衆の考えや行動がまとまりやすくなってきた。



戦争による完全なる征服みたいなことは、できなくなっていくだろう。







司会の田原氏が「国民は国を守るべきだと思う」と言った。



その場の雰囲気が固まって行く。



国を守る意思のない人間は、ダメな奴だという空気ができる。



まるで、戦争前じゃないか。



こうやって場の支配者が空間を作ると、抵抗できない流れになっていく。







一番衝撃的だったのは、堀江氏がその場の空気に流されずに、自分の意思を貫いていた姿だった。



「中国が日本を占領して、何のメリットがあるんですか。尖閣なんてあげてしまえばいいじゃない。そんなこと、国際社会が許すわけないでしょ。」







大人たちは、堀江氏に対して現状の認識不足だと言って、攻撃するような形になった。



しかし、僕はここで何だか安心した。



堀江氏の根底に、戦争を煽らない冷静さがあったこと。平和を求めていることがうかがい知れたこと。



周りの空気に流されずに意見を言える人がいたこと。



その場の感情にとらわれず、全体の利益を考えて、幅広い可能性を考えて思考している人がいたこと。







ツイッターでも、ネットでも、この日の番組に対する議論は続いている。



日本にもまだ、真のロックスターは存在した。

2011年2月4日金曜日

止まっているものと、動いているもの

この間、寝ようとしてベッドに入ったときのこと。
ちょっとした不安と、体が疲れていないことが原因で、なかなか眠れなかった。



ふと天井を見上げた。
視界には、ベッドサイトのライト、壁に貼っているダリの顔、窓際にかかっている洋服。
いろんなものが同時に目に入ってきた。



そして、それらが、まったく動かないことに気づいた。
まったく微動だにしないことに気づいた。当たり前だが。



そして、それがものすごく悲しいことのように思えた。
彼らは、動きたくても動けないのである。
動こうとするように作られていないのである。



その点、人間は意思を持って動くことができる。
行き先を自分ひとりの考えで決められる。
急に踊りだしてもいいし、小走りからウォーキングに速度を落とすことも自由である。



そんな些細な人間の動きが、動作の一つ一つが、素晴らしくてたまらなくなってきた。
動いている人間の動作一つ一つが、とても貴重なものに思えてきた。
生物が、自然に、動作をすることの不思議。
動くということの不思議。



いのちというものが、少しだけ見えたようなきがした。

2011年2月2日水曜日

国民国家の責任

国家に対して、国民は義務を負っています。
日本の場合は、納税、勤労、教育の3大義務が憲法に規定されている。


それに対して国家は国民に対して、生存権や財産権、表現の自由や言論の自由を保証しています。


僕は国家の機能は、安全保障や治安維持などの最小限であるような、小さな政府でいいとおもっています。
保険、年金、病院などは全部民間で、経済競争でいいものが成立すると思っている。
生活の問題や、日々の身の回りのできごとに関しては、これから地方政治の役割が高まってくると思っています。



最近気になるのは、日本が対外諸国に対して、国民の生命を守るつもりが本当にあるのかという点です。
経済的な交渉で、日本が不利になることがある。
敗戦国の前提である以上、仕方のない部分もあります。
しかし、それが国民の命に関わってくるとなると話がちがってくる。
むしろ、経済問題がのちのち国民の生活に関わってくることは自明の理です。
そんなときに、国家が、国民の生命という概念を想定して交渉に臨んでいる感じがしない。
他の国との関係や、国内での立場を優先させて、国民の生命という観点が度外視されているような気がします。



国と国民の関係はこれからもっと希薄になっていくと思われる。
そんなときに、国が国民の生命を守ることをしっかりと見せること。
そんな場面がなければ、国と国民の信頼関係は築けないように思います。



今の政権は、その機会をみすみす逃したようです。
また、チャンスが来ればよいのですが。