2011年2月21日月曜日

生産性の終焉

何となく、最近思ったことがあった。
それは、この世の中において、物理的な生産の終焉が来ているのではないかということ。



かつて日本はその生産力で、経済世界一を達成した。
モノを作って売る。
確かな技術力と、まだ安かった労働力によって、モノが売れたのかもしれない。
まだ世の中に、モノがなかったので、売れたのかもしれない。



人間にとって、生産性のないことほど辛いものはない。
何か新しいもの、プラスになるものを生み出すことが、人間にとっての明日への活力になる。
それが、必要とされなくなってきた。
ただ単純に、人間がモノに飽きてきているということなのかもしれない。



効率よくモノが作れるようになった現代。
すでにモノの正解が出尽くしているように感じる。
類似品やバリエーションをそろえたところで、人間の欲求はそう簡単には刺激されなくなってきた。



物理的なモノの生産には限界がある。
そこでだ。
まず一つ目。
オプションサービスの概念が発達してくるように思われる。
電車の個室化が進んできたり。特定の車両に入る際に、スイカをタッチ。



二つ目。
僕は何度も推しているのだが、日本人に希薄な寄付の概念を、商品とドッキングさせる。
たとえば、捨てられた犬の保護に対する寄付を缶ジュースの料金に組み込む。
以前から言っているように、自販機の巨大ディスプレイの登場によって、それが可能となった。
寄付という言葉が定着しないなら、応援。
遠く離れて、自分の生活圏では決して出会わないような人の活動に対する応援を、行動に移せるようにする。



三つ目。
インターネットによるさらなる流通の簡略化。
アマゾンで、食料品が買えるようになるそうである。
つまり、買いに行く時間の極端な短縮を図る。
仕事中の10分間で、来月の生活用品がすべて決まってしまうような、流通の短縮。
そして、インターネットにおいて、お年寄りでもわかるような決済方法の開発をすすめる。
居酒屋のタッチスクリーンよりも、さらにわかりやすい商品選択画面を作る。



僕は商売っけがない人間なので、甘い考えかもしれない。
でも、近い将来そうなっていくような気がしてならない。