2011年8月31日水曜日

ヒュームと豆腐屋

池田信夫blog part2の記事より。
行動経済学の父ヒューム


彼のブログからは非常に勉強させてもらっている。
今までに僕がどうでもいいと思っていた経済分野の紹介をわかりやすくやってくれる。
彼の存在がなかったら、経済分野への関心は閉ざされたままだっただろう。
本当に感謝している。


この記事では、行動経済学のヒュームが紹介されている。
名前しか聞いたことない人物。
そして、やっぱり僕の人生にはどうでもいい内容だ。
しかし、記事の内容が非常に面白かった。


枠内は記事からの引用。

彼は「人間とは、絶えず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束」だとした上で、そういう本源的にはバラバラの知覚の束が「私」という同一性をもつのはなぜかと問い、その答を記憶の保持に見出した。これはほとんど現代の脳科学と同じ結論である。この観点から、彼は法則や因果関係などの近代科学の概念を疑う。

人間は絶えず変化している。
自己の同一性を保つのは、「記憶の保持」があるから。
昨日の自分と、今の自分が同じであるという前提に自己の同一性が保障される。
明日の自分も、おそらくおなじだろうということ。
だから人間をやっていける。


ある対象に向かって愛着または嫌悪が生じるのは、快あるいは苦の予期からである。もしそういう原因や結果がどうでもよいものであれば、それがわれわれの関心を引くことはありえない。[・・・]理性はこの(原因と結果の)結合を見出すだけだから、対象がわれわれの心を動かしうるのは理性によってではありえないことは明らかである。

そして、完全なる理性というものは存在しないことが書かれている。
必ず、その前段階として感情の影響を受けるということ。
一見理性だけで構築されているようなものには気をつけろということだろうか。
必ずや、何かしらの感情、意図がそこには盛られているはずである。


すべての事実の逆もまた可能である。それは論理的な矛盾をきたさないし、他のすべての物事と同じように精神によって同様にたやすくはっきりと認識できるからだ。太陽があす昇らないという命題は、それが昇るという肯定命題と同じく意味があり、矛盾もない。

そして、近代科学への懐疑にいたる。
今日太陽が昇ったからといって、明日も太陽が昇る保証はどこにもないということ。


明日のことはわからない。
もうこうなってくると、全ての学問が言っていることは、全部おんなじに感じられるようになってくる。
そして、なんだかんだで、ヒュームが言っていることと、江戸川橋のとうふやの6代目が言っている内容もそう違わないような気がしてくる。


結局人間みんなそれなりにすげえんだろう、ということが言いたかった。

2011年8月29日月曜日

小松左京の後

404 Blog Not Foundの記事より。

継ぐのは誰か? - 小松左京哀悼の辞に代えて


SFの大家、小松左京氏が亡くなった。
彼の作品は一冊も読んだことがない。
しかし、知人の話で小松氏が日本SF界の巨匠であることは薄々知っていた。
そして今、小松氏の後を継いでいくのが誰なのかが非常に重要な気がした。
これから、誰が日本のSF界を背負っていくのか。
読んだこともないのに。


僕はSF作品というジャンルを少しだけバカにしていた。
そんな現実離れした話があるはずないではないかと、はなから否定して物語にのめり込むことができなかった。
とんでもない恐怖を作り出すのも、とてつもない未来を作り出すのも、結局現在に生きている人間だというふうに思ってしらけていた。


おそらく、「SF」というくくりが嫌いなのだと思う。
SFも歴史も、経済小説もすべて文学。
そういったカテゴライズが嫌いだったのだと思う。


小説なんて、作り話だ。
SFとどう違うのかがわからない。
完全なるノンフィクションなんて作ることはできない。
作品の中には、必ず製作者の視点が入り込むからだ。


今になって、そういったジャンル分けを超越した現実が見えてきた。
とんでもない作り話でも、起こり得ないような未来の話でも、結局作り手の頭の中に浮かんだという意味においては真実である。
そう捉えることによって、世の中の全ての事象が真実だと感じられるようになったことによって、SFの面白さを受け入れる準備がようやく出来たような気がする。


記事では、氏の晩年のエッセイ「SF魂」が取り上げられている。
まずは手始めに、彼のエッセイから読み始めてみようと思う。

2011年8月26日金曜日

広報というジャーナリズム

現代ビジネスの記事より。
広報のプロがいない!  - 井上久男「ニュースの深層」 - 現代ビジネス [講談社]


僕は最近、企業における広報の存在というものを何となく理解した。広報というものが気になっている。


それまでは、広報活動とは、自社の商品をマスコミに向かっていいように宣伝することなのかと思っていた。
そういう活動はPRと言い、広報とはまた違うものらしい。


広報(こうほう)とは、企業だけでなく行政や各種団体の活動内容や商品などの情報発信を行う業務、またはその担当者や部署。広告と混同されることがあるが、広告が新聞雑誌テレビなどの広告枠を買って商品や企業の宣伝を行うことであるのに対し、広報とは情報を発信することで、新聞や雑誌などの媒体記事として取り上げてもらったり、従業員株主消費者などのステークホルダーに活動内容などを理解してもらうことである。情報戦心理戦の一手段として捉える場合もある。(Wikipediaより引用)


広報とは一般大衆に対しての、イメージ戦略を行う所とでも言っておく。
だから政府にもあるし、商品を持たないところにも広報は存在する。


この記事では、現代において広報のプロがいないということが書かれている。


「広報のプロ」とは、1.自社の経営や商品・サービスがどのように評価されているかを情報収集する「広聴能力」に長けている2.組織の価値観にどっぷり浸からず、半歩踏み出してその組織を客観視でき、問題点を経営トップに意見具申できる3.社内だけではなく、社会や業界全体の動向を見渡して情報を把握している---この3つの能力を兼ね備えた人だと思う。能力というよりも、「職人気質」に近いものであり、会社や組織をどう捉えるかの「哲学」や「心構え」といった方が適切かもしれない。



仕事の内容はこの記事を見る限り非常に辛いものである。



問題を客観視して上層部に報告するような気概のある人が減っているのだろう。
そんなことをやって周りから白い目で見られて、挙句の果てにはク ビになるような危険なことは仕事だといっても誰もがやりたくないことである。


これからの広報活動は楽になっていくだろう。
インターネット上の情報をかき集めて、いい情報も悪い情報も全て上層部に報告すればいいわけだから。



そこに広報の担当者の考えを無理に入れなくてもよい。インターネットでこんな情報が流れていましたとそのまま報告すればよい。


メディアの仕組みが変わっていく中で、企業広報のシステムも変わっていくかもしれない。
これからの変化が楽しみである。


世間をコントロールしていこうとする政府、企業と、それを是正していくジャーナリズム との間のやり取りが、これからどのようなものに変化していくのか、非常に楽しみである。

円スケジュール

ライフハッカーの記事より。
一日のスケジュールをアナログ時計っぽく見える化するススメ
 
 
今まで色々なスケジュール管理をしてきたが、どれもしっくりくるものはなかった。


これなら時間が有限なもののように感じられるような気がする。
一周したら明日が来てしまうという感覚は、直線的なスケジュール帳ではなかなか理解しがたい。


一日を円形に配置しているこのスケジュール帳は面白いかもしれない。

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2011年8月24日水曜日

痛快憲法学

小室直樹著、「痛快憲法学」を読んだ。
現在では手に入りにくくなっているみたいだ。
僕は図書館で借りて読んだ。

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内容については、「トート号航海日誌(読書録)」より引用。
ちょっと長いが。


【第1章 日本国憲法は死んでいる】
日本国憲法は死んでいる。憲法典はあるが、憲法は生きていない。生きかえらせる
には憲法学を学ぶ必要がある。
【第2章 誰のために憲法はある】
憲法は国民に向けて書かれているわけではない。絶対権力・リヴァイアサンである
国家を縛るために存在する。
【第3章 すべては議会から始まった】
憲法や議会は歴史上、民主主義とはまったく関係ない。中世において、租税導入を
したい国王と既得権を守りたい貴族が妥協する場として設けられたのが議会であっ
て、そこで合意された最初のものがマグナ・カルタであった。しかし、民主主義とは
まったく関係なく作られたマグナ・カルタが原点となってイギリスの民主主義は生ま
れることになる。
【第4章 民主主義は神様が作った!?】
国王対貴族の争いは、貨幣経済の発達(貴族は自給自足に頼り、国王は商工業者か
ら税金をとっていた)によって国王が勝ち、絶対王政が成立した。このリヴァイアサ
ンに挑んだのが予定説を信じたプロテスタントである。予定説によれば、救われるか
どうかは神が既に決定していて人間には分からない。しかし、少なくとも予定説を信
じているということは救いのための必要条件であるので信じる。また、いつまで経っ
ても救いの確信が得られないので「信仰の無限サイクル」が生まれる。こうして片時
も信仰が頭から離れることのないプロテスタントが王権を覆した。
【第5章 民主主義と資本主義は双子だった」】
民主主義と資本主義は予定説から生まれた。予定説によれば絶対的権力を持つ神に
対して人間はちっぽけなものである。そこに神の下の平等という人間平等の観念が生
まれ、民主主義の土台となる。
また、予定説によれば、職は神が与えてくれたものである(天職)。したがって働
くことが神の意思に合致することになり、結果、いくら金持ちになっても働く。富は
否定されているのでお金は貯まる。反面、隣人愛に基づいて商品やサービスを適正な
値段で奉仕する。この隣人愛を合理的に行うという利潤最大化が、伝統主義を転換す
る資本主義の精神となった。富の否定が利潤追求を生むという逆説的な結果が起きた
のである。
【第6章 はじめに契約ありき】
中世までの伝統主義を終わらせたのが予定説だが、そこから新しいビジョンを作り
出したのはロックの社会契約論である。ロックによれば、人間は自然状態ではせっせ
と働き、富を増やして平和に暮らすことができる。しかし、中には働かない人もい
て、貧富の差が生じ、泥棒や殺人などの争いが起こる可能性がある。そうなると紛争
を裁定してくれる権威が必要となるので、人間は契約を結び、国家を作った。人民の
契約が国家の基礎となっているため、国家が契約違反を犯せば、人民は抵抗権、革命
権を行使できる。
日本国憲法も社会契約説である。しかし、日本では公約違反が平気で行われ、契約
が守られていない。しかも日本国民は公約違反に対して厳しい態度を取らない。社会
契約は死んでしまっている。
【第7章 「民主主義のルール」とは何か】
民主主義のルールとは、約束・契約を守るということである。これは西洋では、旧
約聖書以来流れているエートスである。しかし、日本では政治家は約束を守らない
し、国民も公約違反に目くじらを立てない。これが日本の民主主義の問題だ。
【第8章 「憲法の敵」は、ここにいる】
憲法の敵・民主主義の敵は民主主義である。なぜなら民主主義が独裁者を生むから
である。これは歴史的にも証明されている。ローマ共和制を帝政に変えたカエサルに
しろ、フランス革命後に皇帝となったナポレオンにしろ、ワイマール憲法下で独裁者
となったヒトラーにしろ、国民の絶大な人気を背景に独裁者となった。
【第9章 平和主義者が戦争を作る】
憲法9条は1928年不戦条約を手本にしている。しかし、不戦条約はかえって第二次
大戦を引き起こした。チャーチルは「平和主義者が戦争を起こした」と言っている。
ヒトラーは平和主義を利用して勢力を拡大していったのだ。
ヒトラーがヴェルサイユ講和条約を破棄し再軍備したとき、ラインラントに進駐し
たとき、そして、ズテーテンラントを要求したとき(ミュンヘン会議)、いずれのと
きも周辺諸国は平和主義に縛られ、ドイツ軍を一掃できたのにもかかわらず、軍隊を
使わなかった。その結果、ヒトラーは戦力充実に成功し、第二次大戦を引き起こした
のだ。
平和主義は戦争を招く。戦争をする決意のみが戦争を防ぐ。これが第二次大戦の教
訓である。現実問題、平和主義と軍備は矛盾しないのだ。日本も真の平和主義を目指
すのであれば、戦争研究をしなくてはならない。
【第10章 ヒトラーとケインズが20世紀を変えた】
20世紀前半まで民主主義は古典派経済学を前提としていた。ところが、そこで世界
恐慌が起こった。ヒトラーとケインズは公共投資こそが不況脱出策であることを見抜
き、前者は見事に経済を立て直した。
平成不況の原因は、民主主義精神の欠如に由来する。資本主義経済は民主主義が
あってこそ成立する。しかし、民主主義が欠如していた日本には真の資本主義は根付
かなかった。ヒトラーとケインズが有効需要で不況に打ち克てたのは、資本主義経済
を前提にしていたからであり、同じことをやっても前提が異なる日本には通用しな
い。
【第11章 天皇教の原理-大日本帝国憲法を研究する】
日本がまがりなりにもデモクラシーの国になれたのは天皇教のおかげである。伊藤
博文は大日本帝国憲法制定にあたって、ヨーロッパの憲法はキリスト教の伝統から生
まれたことに気づいていた。そこでキリスト教に変わるものとして天皇を憲法の機軸
に持ってきた。その結果、(1)天皇の下の平等によって士農工商の身分性がなくな
り、(2)日本は神国であることを信じたため予定説同様、余計なことを考えずに働
くエートスが生まれた。
しかし、天皇は現人神であるため、人民との契約が存在しない。このため日本人に
「憲法とは国家を縛るものである」という意識は定着しなかった。
それでも大正デモクラシーの頃は、議会の弁論で内閣が倒れるなど、立派にデモク
ラシーが機能していた。50年前まで身分制があったことを考えれば日本のここまでの
成長は誇りうる。
【第12章 角栄死して、憲法も死んだ】
大正デモクラシーまではうまくいっていた日本のデモクラシーは、国民、議会、マ
スコミが軍を支持することにより死んだ。デモクラシーを殺したのは結局デモクラ
シーだったのである。
戦後、憲法が死んだのは田中角栄が死んだからである。第一に、田中角栄は議員立
法を数多く手がけたデモクラシーの権化だった。第二に、ロッキード裁判では、刑事
免責が行われ、反対尋問が無視されるという憲法・刑事訴訟法違反が相次いだ。
【第13章 憲法はよみがえるか】
戦後の独裁者は官僚である。バブルを一気に破裂させてしまったのが土地をを担保
とした融資を控えるよう通達した大蔵官僚であったように、官僚は放っておけば悪く
なる。この官僚の弊害に気づいていた中国は、歴史的に貴族、宦官、御史台を官僚と
常に対立させてきた。日本では政治家がその役割を果たすべきであるが、官僚を制御
できる政治家はいない。よい政治家を作るのはよい国民しかいない。
戦後日本が悪くなったのは、GHQが天皇教の効用を理解せず、象徴天皇制を導入し
たからである。その結果、機会の平等は結果の悪平等、自由は放埓というように誤解
されることになった。また、天皇という憲法の機軸が失われた結果、急性アノミーが
起こった。人間は権威なくして生きていけないのに、権威を消してしまったため、秩
序もなくなったのである。
日本を復活させるためには、現実を直視すること、そして、民主主義を目指して
日々努力すること、これしかない。


彼のことは、このカジバノロンブンの「人物評」で取り上げたことがある。
小室直樹
非常に聡明な学者だった。現在はもう亡くなっているが、こんな人物が日本にいたのだということを知れただけで、非常に誇らしい気持ちになる。
彼の著作からは、毎回驚くような新たな発見があるのだ。


最近、民主主義とは、デモクラシーとは何かについて考えている。
まあ、自分の力では限界があるので、小室氏の力を借りることにした。


民主主義と言えば、議会で話し合って、多数決で決めることみたいなイメージがある。
しかし、この本では「民主主義」と「多数決」「議会」は全く関係の無いものだということが説明されている。


議会は民主主義の誕生以前にもう存在していた。
中世の貴族が国王に対して権利を主張するために議会は誕生した。
そこらへんの経緯が詳しく書いてある。
だから、議会があるから民主主義なわけではない、のだそうだ。


そして、多数決も議会をスムーズに運営させるための方法のひとつに過ぎないということが書かれてあった。
多数決で決まったからといって、それが民主的であるわけではないということ。
何だか引っかかっていたものが取れた気がして安心した。


小室氏は日本に民主主義も憲法も存在しないと言う。
僕もそうだと思う。
日本人が憲法を理解していないし、民主主義が何かを理解していない。


僕自身も、日本に民主主義、憲法がないことは実感としてわかる。
だが、民主主義というものが一体何なのか、どうやったら世の中で達成できるのかについての方法は、まだ思いつかない。


民主主義なんかなくても、そんなに難しく考えないで、平和に暮らしていければいいんだよという人がいる。
しかし、もう成長の時代は終わった。
誰かに頼って生きていける時代は終わったのだ。


一人ひとりがしっかり考えておかないと、取り返しのつかない状態に追い込まれる可能性がある。
日本に生きていくにしてもだ。


その前提として、民主主義が場の中に存在していることが一番効率がいい。


もしかしたら民主主義は日本にはいらないのかもしれないし、適していないのかもしれない。
しかし、僕はそのような国に生きるのは嫌だなあと思う。


日本を捨てるか、立て直すのか。
その分かれ道はデモクラシーの達成にあると思う。

2011年8月22日月曜日

個旅

BLOGOSの記事より。
誰もが旅行会社になれる時代?「trippeace(トリップピース)」がローンチ


「trippeace」というサービスが紹介されています。
ユーザーが良好プランを提案し、参加者を募ることができるというサービス。


枠内は記事より引用。
例えば僕が「チャリティ温泉合宿(参加費の一部は寄付)」なんて企画をアップして、参加者を募ることができてしまいます。現時点でも「週末を利用して、被災地支援に行こう!」「スペインでトマト祭りに参加しよう」「オオクワガタを捕獲するぞ!」などの面白い旅行企画が上がっています。
面白い企画をプランニングして、それなりの参加費を集めることができれば、無料で旅行にも行けるかも知れませんね。


こういったサービスは自分も考えていたが、実際に実行する人が出てきてくれて、なんだか嬉しい限りです。


旅行会社のパックや、毎年の企画の使い回しツアーみたいなものではない、一生の思い出になりそうな濃い体験ができそうな気がします。


このサービスでは、もう一つの旅の企画に集まってくる時点で参加者のコミュニケーションも取れている気がする。
前もって情報交換なんかを行なっていれば、参加者同士の関係も、深まっていくこと間違いなしです。
新しい時代のサービスだという気がします。


trippeace


僕も旅の企画だけ出してみようかな。
行く暇がないけれども。

2011年8月19日金曜日

太陽

8月4日、サッカー元日本代表の松田直樹さんが亡くなった。
練習中の急性心筋梗塞。
34歳だった。


彼のチームの練習場にはAEDが備えられていなかったという。
J1のチームだけではなく、大規模なスポーツ会場、人がたくさん集まる場所にはAEDの設置が望まれる。
心停止は4分で生存確率が半分以下になる。
もし早期の対処が行われていたら、結果も違っていたかもしれない。


おそらく練習時の彼は、水分補給が十分ではなかったのではないかと思う。
夏場の急激な運動は、心臓への負担が大きい。
こまめな水分補給は、年齢を問わずに大切なことだ。


自分自身も30歳を過ぎて、急激な肉体機能の衰えを感じている。
プロスポーツ選手といえども、年齢には勝てない。
彼は34歳だったが、サッカー界では決して若いとは言えない。
サッカーという非常に過酷なスポーツにおいての自己への過信は危険だ。


サッカー選手の突発的な心停止の例は、世界各国で後を立たないという。
原因の究明と、今後の対策を考えてほしいと思う。
それは必ず、民間での事故防止に活かされることになる。


スポーツ選手は現役時代の活躍だけに華があるのではない。
引退後の活動においても、その特殊な経験を人々に語り伝えるという使命がある。


1996年のアトランタ五輪。
「マイアミの奇跡」と呼ばれる対ブラジル戦。
日本は伊東の1点を守りきり、勝利を収めた。
彼は、ブラジルを撃破した時のメンバーだった。


それから15年経つが、日本はなかなかブラジルには勝てない。


アトランタの経験を聞かせてほしかった。
どうやって、ブラジルを抑えたのか。
何を思ってピッチに立ったのか。
これから日本がブラジルに勝てる日が来るだろうか。
いろいろなことを聞かせて欲しかった。


夏の日の午後。
太陽がひとつ、なくなった気がした。

2011年8月17日水曜日

期限を決めること

ライフハッカーの記事より。
失敗は成功の母と言えるような「良い失敗」をするためのコツ – ライフハッカー
 
 
「失敗は成功の母」というのは、もう十分に承知しています。
失敗を恐れずに挑戦していかないことには成功はない。
どれだけ失敗をしているかという数も大切な気がします。
しかしながら、失敗を恐れてしまい、自分を守ってしまうことばかりの毎日です。


この記事の中での「良い失敗をするためのコツ」のポイントは、3つ挙げられており、シンプルで非常にわかりやすいです。


  • プロジェクトの成功(ゴール)について、日付も含めて詳細に取り決めすること。
  • どんな企画でも最悪のリスクについて考え、明確にしておくこと。
  • 明らかに失敗したら、すぐにそれを認めること。


これなら実践しやすいのではないでしょうか。
10個も20個も項目があったら実践する気になれませんが、3つならいける。


一見簡単に見えるけど、やってみると難しい。
僕は特に、期限を決めるということが苦手です。
まあ焦らなくてもいいやと思ってしまったり、どうせまた明日やるからいいやと思ってしまったり。


この3つをある程度クセにしてしまえば、物事が円滑に進んでいくような気がします。

2011年8月15日月曜日

オーストラリア

ライフハッカーの記事より。
国民の幸福度世界一のオーストラリアで人が最も幸せを感じる瞬間とは!? 「Tim Tam Explosion」のススメ


僕は中学の修学旅行でオーストラリアに行った。
記事でも書かれているように、街行く人々が活き活きとしていて、本当に幸せに見えた。


とにかくゴミゴミしていない。
国土がでかい。
家の前の駐車スペースが16台分くらいある。
その広さも、幸せのひとつの要因だろう。


現地では、おじいさんとおばあさん、娘の家庭にホームステイした。
どこにも連れていってくれないんじゃないかと思って心配したが、おじいさんとおばあさんのほのぼのとした雰囲気は、中学生の僕には安心で良かったのかもしれない。


おじいさんとおばあさんは非常に幸せそうに毎日を暮らしていた。
仕事に出かけるおじいさんを見送る、おばあさんの雰囲気も良かった。
小腹が空いた時に食べたパイの味もよかった。
おじいさんのところに遊びにやってくる人たちには、笑顔が絶えなかった。


そんなオーストラリアで圧倒的なシェアを誇るビスケット。
やっぱり、日本で食べてもおいしくないのだろう。
仕事のあとのビールがうまいように、広大な大地にマッチするビスケットがある。


死ぬまでにもう一度オーストラリアを旅行して、「Tim Tam Explosion」を全裸でやりたいと思う。

2011年8月12日金曜日

比較するのやめたい。

ライフハッカーの記事より。
なぜいつも「隣の芝生は青く見える」のか? – ライフハッカー


バリバリスーツを着て、フェラーリに乗っている人を見かけると、自分がバカバカしくなります。
ベビーカーを押して、二人で仲良く街を行くカップルを見ると、自分の無力さを感じます。



結局は他人と自分を比較するのはやめようということなのですが、それがなかなか難しい。
 
 
僕なんかはまだ小物なので、他人と比較しないようにしようと意識するあまり、他人の行動を見ないようにしてしまうという、世間断絶状態に 陥ってしまいます。


果たしてそれがいいことなのかどうかは分かりませんが、あまりに他人を見ないようにしていると、世間との距離感が取れなくなっておかしな ことになってきます。


ともかく、悪い面というのは人に見せないものなので、その結果、誰もがその人の良い面ばかりを見ることになります。 これがまさに「隣の芝生は青く見える」ということ。仕事でも日常生活でも同じです。一生懸命働い ていても、自分と他の同僚を比べると、大抵向こうの方が自分よりも仕事をしているように見えます。
それは、その同僚が働いているところしか見ていないからです。その人の日常生活や、その他の一 面は見えていません。一方で、自分の生活に関しては細かなところまで知っています。一見完ぺきに見える同僚と、リアルな自分を比べる なんて、あまりに酷です。


そうか。普通の人は、悪い面を人に見せないようにしているのか。
だから、みんな良く見えるのか。


僕は良いところも、悪いところも人に見せる性格なので、わかりませんでした。


まあ、実際の状態よりも隣の芝生が青く見えるということが分かっただけで、前に進めた気がしました。

2011年8月10日水曜日

オルニチンでいこう

日経トレンディネットの記事より。
加齢臭だけじゃなかった… 疲れが臭う“疲労臭”にオルニチンが効く - トレンド - 日経トレンディネット


この記事を読んで、加齢臭に加えて、疲労臭があるのかとびっくりした。
自分はまだ加齢臭は出ていないと思うが、疲労臭はとんでもないことになっているのではないかと思う。



記事を読んでさらに感心したのは、肝臓の機能の多さ。
アルコールの分解だけを主に行っているのかと思ったら、代謝やエネルギーサイクルも担当しているということである。
他の臓器に比べて超多忙だ。


そこで最近話題になっているのがオルニチンという物質らしい。
しじみに多く含まれているという。


僕は男の一人暮らしなので、しじみの味噌汁などこの先一生作らないかもしれない。


そしたら、チーズをたくさん食べていこうと思う。酒のつまみには必ずチーズを入れるようにしよう。
無意識のうちにもうやっていたことなのだが。

2011年8月8日月曜日

戦争と平和

池田信夫blog part2の記事より。
終わりなき戦い


池田信夫氏による、本の紹介の記事。
「Constant Battles」という本。
なぜ我々は戦うのかについて書かれた本だと思う。


記事には驚くべき事実が書かれている。
20世紀のなかばまで、成人男性の25%が意図的に殺されていたという事実。
人口が増えて食料が希少になる時、戦争によって合理的に人口を調整していたということ。
恐ろしいというか、仕方ないというか。


自然な状態の人類は平和で友好的だったのではなく、凶暴で攻撃的だった。それが緩和されたのは、農耕によって食糧が自給できるようになってからだが、それでもより多くの食糧を求めて戦争が繰り返された。成人男子の25%が殺されるという比率は、20世紀なかばまで変わっていない。ファーガソンなど多くの歴史家も指摘するように、西洋文明が栄えた最大の原因は、主権国家が戦争機械としてもっとも性能がよかったからである。


僕自身、国家も法律もない、自然な状態の人間はお互いに平和に暮らせるものと思っていた。
国家があるから、戦争が起こるのだと思っていた。
しかし最近は、どうやら違うのではないかと考えるようになった。


自然状態は電車の中。
国家は会社の中と考えたらわかりやすいかもしれない。
電車の中のほうが無秩序な争いが起こる可能性が高い。
ある程度のルールがないと、人間は平和に暮らしていけない生き物なのだろう。
何だか悲しいが、それが事実なのだろう。


著者は、現代では食糧の総量としては絶対的な欠乏はなくなったので、戦争は合理的行動ではなくなったとのべているが、その分配は大きく片寄っており、民族的・宗教的な憎悪も絶えないので、戦争はなくならないだろう。「自然」のままに生活すれば平和になると信じているのは、飽食した先進国の自称エコロジストだけである。


現代では、戦争が商売のようになっている感がある。
食料の奪い合いという目的がなくなった今、戦争は無理やり引き起こされているのかもしれない。

2011年8月5日金曜日

東京新聞

BLOGOSの記事より。
今、東京新聞がおもしろい


現在の主要新聞はこれから終わっていくだろう。
なぜなら、面白くないからだ。
新聞を読む意味が分からなくなってきたからだ。


国民全体で共有するような話題が減ってきたのは事実だろう。
そして、そのような事実があったとしても、各社の方針にしたがってねじ曲げられて掲載されているということがバレてきた。
そんなものにわざわざ金を出して、国民感覚を維持していく時代は終わったのだ。
ただ事実を受け入れ、その情報をもとに自ら考える時代になったということだ。


新聞不況の中で、東京新聞は面白い。
僕も10年前から感じていた。


東京新聞には、そもそも主要5紙と張り合う気持ちがない。
おごりがない所がいいのだろう。


そして、東京新聞には地域に密着した情報が満載だ。
だから、自ずと特色豊かな紙面が出来上がる。
文化面、エッセイ類の視点のすばらしさは以前から感心していた。
誰が企画しているのだろう。


東京新聞のようにバラエティ豊かな社会の一日を、ひとつに、コンパクトにまとめている情報媒体はなかなかないのではないだろうか。


これと似た現象として、雑誌界における「週間ポスト」が面白くなってきたという話がある。


この二つの流れに共通している点。
伝聞垂れ流し方式ではなく、ちゃんとした取材を行っているかどうか。
地域性と足。
これからの東京新聞から目が離せない。

2011年8月3日水曜日

独り占め、よくない

ライフハッカーの記事より。
アイデアがアイデアを生み、新しいアイデアを育てる


アイデアが孤立してしまってはいけないというお話。
面白いアイデアがあったら、他の人に話して、さらなるアイデアの掛け合わせをやってみようということ。


以下は記事からの引用。
自分一人でたくさんのアイデアを持っていても、あまり良くはありません。自分以外の人も含めてそれぞれがアイデアを持っていると、アイデアが孤立することなく、他のアイデアを発展させることができます。これは、自分の頭の中で考える時も、他の人とブレインストーミングする時も同じです。


ひらめいたアイデアでも、ついつい独り占めして、おいしいところを持っていってやろうと思ってしまう。
でも、人間一人のできることはそんなに大きくはないということでしょうか。
ガンガンアイデアを外に出していきましょう。

2011年8月1日月曜日

ゲームと犯罪

Slashdotの記事より。
暴力的なゲームは犯罪を減らすという研究結果


暴力的なゲームが犯罪を増加させるわけではないという研究結果が出たそうだ。


確かに人間の攻撃欲求を、ゲームは解消してくれそうだ。
戦うということ自体が少なくなってしまった世の中。
現代生活において本能を発揮できない無意識のストレス。
そのストレスを解消する手段としての、ゲームの役割は見逃せない。


これだけ制限が多くなった現代において、子どもたちにゲームすら禁止するのは少し酷な気がする。
男の子たちの冒険心は、行き場をなくして苦しんでいるかもしれない。


以下、記事より引用。


暴力的なゲームは攻撃性を高めるものの、ゲームに多くの時間を割り当てることにより犯罪に関わる機会が減少するというものだ。このような効果はゲームの内容が暴力的かどうかに関わらずみられるものだが、結果として「犯罪に関わる機会」を奪う効果の方が、ゲームによって誘発される攻撃的な行動よりも大きいとのことだ。


つまり、ゲームに当てている時間が多い為に、犯罪を起こす時間がないということ。
犯罪にかける時間もないというのが現代の子どもたちの現実なのだろうか。
何だか寂しくなってしまった。


若者よ。
コントローラーを捨てよ。
また、街に出よう。