2011年7月4日月曜日

ハーレーに乗った数学者

BLOGOSの記事より。
数学は教えてもらえません。


この記事には数学が教わるような学問ではなく、自分でつかみ取っていく学問であることが記されている。
WS大数学科の教授から、数学科の教員に送られたメールの一部が、サッパリと数学の根本を捉えている。


In my humble opinion, the “boring lecture” format is the worst possible way to teach and to learn mathematics.
(訳)これは単なる私の意見だが「退屈な講義」形式は数学を教えたり習ったりする上で最悪の方法だ。


そして、筆者はこう付け加える。


数学者ですら、いや、数学者ほど、数学の講義を聞くことに大した意味があると思っていないのだ。


僕は中学校あたりまでは、数学が得意な方だった。
もう、全部丸暗記していたからだ。


しかし、高校2年生あたりから、数学が正体不明な分野になっていった。
先生が何を言っているのかわからなくなってくる。
「Σ」とか「β」とか、九州の片田舎で生活している人間にとって、本当に必要なのか分からない記号が頻繁に舞台に出てくる。
そして、バカバカしくなってくる。


僕の育った高校には、木村先生(当時70歳近かった)という数学の先生がいた。
文系クラスの僕にとって、彼の講義は宇宙人の話すお経のようなものだった。
質問さえ浮かばない敗北感。
彼の担当する幾何の時間には、クラスの大半が前倒しで弁当を食べていた。
そして木村先生は、70近いのにハーレーに乗っていた。


先生が悪いわけではない。
記事でも出ているように、そもそも教わるものではないのかもしれないものを教えることに無理がある。
数学という自分の頭で考える学問を理解し、さらに人に教えることは指南の技なのだ。



社会に出てみて、教わっただけでは理解できないものがたくさんあることに気づいた。
もう教わった、教わらないの次元ではついていけない。
自分の力でつかみとって、モノにしていくしかない。
自分の頭で解決していくしかない。


数学という学問が苦手だったのは、自分の頭で考えるということが苦手だったということだろう。
これからは数学的な考え方を生活に導入して、自らの力で問題を解決していくことが必要だと思った。