2012年4月11日水曜日

平等

「小さな政府を語ろう」の記事より。
よい平等、悪い平等 伝統の知恵に学ぶ


平等という概念が、社会で実現されようとして長い時間が経っている。

「平等」は至高の価値=正義なのか、 劣情に過ぎない=悪徳なのか。


平等という概念は、耳に心地いい。
あたかも社会において達成されるべき究極の目標のように聞こえる。
しかし、このブログでは平等を切り捨てる。

「かつて不平等の不利益を受けた人間は、それを埋め合わせるべく利益を受け続けることができるので」
平等になるまで敵対するものを攻撃する。
平になるまでブルドーザーでならしてしまう。

(努力なしで) えこひいきシローーー
ということに過ぎません。

まさにそのとおりであるなあと思う。


僕も世の中で使われている平等の意味には違和感を感じていた。
しかしながら、このブログの文章を読んで何だかスッキリとした。
 
 
平等を求めようとする動機が、単なるひがみのようなものに過ぎないということ。


実際に全てが平等になった社会を想像してみるといい。
みんな同じもの考えて、同じものを食っている状況ほど気持ち悪い状態はない。
そういうことじゃないだろうと、平等を求める人には言ってみたくなる。
 
 
そんな中、仏教での平等感がこのブログの中で紹介されています。


仏教での平等……あの世での平等、天国での平等
→俗世間に平等なんてもちこむんじゃないというのが仏教の教えだ   そうです。

 
結論から言うと、概念上、頭の中では平等はいいんだけど、実社会に持ち込んだらおかしなことになるということでしょうか。
 
 
僕は平等というものを追い求めるのは、ただ一つの局面だけでいいと思っています。
「チャンス」という局面だけ。


どんな人間にも、同じ目的の達成のためのチャンスがあってしかるべきだということ。


そこにやはりどの人間も平等だという前提が入ってきたらおかしなことになる気がする。


どんな人間でも首相になれて、どんな人間でもガンを治せるという状態。
それが真に進んだ社会。
平等の原理を間違えて社会は進んでしまったのかもしれません。